2014-06-02 産経新聞論説委員 木村良一
写真: 荻田泰永さんは今春、ソリ2台を引きながら北極点を目指した
写真:荻田泰永さんの著書『北極男』(講談社)
なぜ、そんなにしてまで過酷な北極の旅を続けるのか。これを聞きたくて36歳の北極冒険家、荻田泰永(おぎた・やすなが)さんを取材した。
荻田さんは今年の春、カナダ最北端のディスカバリー岬から北極点までの780㌔の海氷上を食料などの補給を一切受けず、独りで2台のソリ(計120㌔)を引いて歩く冒険に再チャレンジした。
成功すれば日本人初、世界で3人目の快挙となるはずだったが、北極の厳しい大自然が行く手を阻み、計画の日数をオーバーして食料が尽きることが予測されたため、半分ほど進んだ44日目の時点で冒険を断念した。
荻田さんは「来年、3度目の挑戦をする。自分がやりたいから」と話す。それが彼の生き方なのだ。そこにはどうして山に登るのかと聞かれ、「山があるから」と答えたイギリスの登山家、ジョージ・マロリー(エベレスト世界初登頂を目指し、1924年6月に遭難して死亡)の言葉と通じるものがあるし、「人はどう生きるべきなのか」「なぜ人は生きるのか」という究極の問いに対する答えを見つけ出すヒントにもなる。
氷点下40度以下。目の前には果てしない雪と氷の世界が広がる。ホッキョクグマがテントを揺する。風雪が間断なく吹き続けるブリザードにも襲われる。凍傷の危険もある。これが北極だ。
北極点までは北極海に張った氷の上を行く。だが平らな海氷が続いているわけではない。海が大きく動くと、氷と氷とがぶつかり合う。そうすると氷が盛り上がり、高さ10㍍の乱氷がいくつもできる。そんな乱氷帯を越えるために汗だくになりながらソリを押し、引っ張り上げる。汗はかいたそばから凍っていく。たいへんな重労働だ。出発前に83㌔あった荻田さんの体重(身長176㌢)は10㌔も減った。
荻田さんは1977(昭和52)年9月1日に神奈川県愛川町で3人兄弟の末っ子として生まれた。神奈川県立愛川高校を卒業して神奈川工科大に入学したが、「自分が生きている実感が持てない」と大学生活に疑問を抱いて3年で中退した。アルバイトやカンパで資金を作り、カナダ北極圏の単独徒歩、犬ぞりによるグリーンランド縦走、一昨年と今年の北極点への無補給・単独・徒歩の挑戦などこれまで14年間に13回も、北極を旅してきた。その冒険を本にもまとめている。
最初が2000年4月~5月のカナダ北極圏の冒険だった。山形に住む極地冒険家の大場満郎さんの呼びかけで集まった10人ほどの仲間といっしょにカナダのリゾリュートから北磁極(地球の地磁気が集約する北の極点)までの700㌔を35日かけて歩いた。この大場さんとの出会いが荻田さんを「北極男」に変えた。
北極の冒険は精神的にも過酷で、今春の北極点までの挑戦でも歩き出す直前に「怖い」と独りで泣いた。断念してレゾリュートの村に戻ってきた後も不安感や恐怖心から一週間、睡眠中にうなされ続けた。
荻田さんは「どうしてそんなことをやるのか、と聞かれてもその答えを見つけるのは難しい。『やりたいからやっている』としか答えようがない。どこからそんなエネルギーがわいてくるのか、と質問されても困る」と語り、「それでも北極は生と死がとても近くにあり、自分が生きることに一生懸命になれる場所。生きるとはどういうことなのかが分かってくる。この日本という社会の中でも当然、みな一生懸命に生きようとしているが、何かが足りない。北極とこの社会との間には大きなギャップがある」と指摘する。
荻田さんはそのギャップについて「現代社会の中では人間が本来持っている感覚を閉じていないと、生きられない。ところが北極に行くと、五感が開いて鋭くなる。北極では五感を働かせてすべてのものを観察して自分にどんな影響を及ぼすかを考えなければならない。たとえば雲の動き、風の向き、肌に感じる湿気を感じて天気がどう変化するかを予測する」と説明する。
7年前、カナダのレゾリュートからケンブリッジベイまでの1000㌔の単独徒歩の冒険中のときだった。外で呼吸するような音が聞こえた。テントから飛び出すと、200㍍先にホッキョクグマがこちらに向かって歩いて来るのが見えた。
「クマの呼吸音など聞こえるはずがないほど離れていたのにあのときは確かに聞こえた。五感が平時の何倍も研ぎ澄まされていたのでしょう。幸いクマは50㍍ほど近づいたところでライフル銃を発砲して追い払うことができた」
–以上−
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とことん北極にほれ込んで冒険の旅を続ける荻田泰永さん。そんな彼をインタビューした記事を産経新聞の「話の肖像画」の欄で6月中旬に計5回にわたって連載する予定です。
※慶大・旧新聞研究所OB会のウエブマガジン「メッセージ@pen5月号」から転載しました