2016-08-02(平成28年) 松尾芳郎
図1:(Greatest Generation Naval Museum)「PBY」の復元機がサンデイゴ郊外で離水するところ。南アフリカにあった機体をサンデイゴに運び、復元し飛行可能に仕上げた。「PBY」は、大東亜戦争の転機となったミッドウェイ海戦で、長距離哨戒飛行を実施、来襲する日本の空母機動部隊を遠距離で発見し、米側の勝利に貢献した。
1936年以来1945年までに3,276機が生産されたが、最も多く作られたのは「PBY-5A」型で1941年10月から1945年1月の間802機が生産された。翼幅31.7 m、全長19.5 m、最大離陸重量16 ton、最大速度314 km/h、航続距離4,000 km。乗員約10名、翼端浮舟は引込み式。エンジンはP&W製R-1830 2重星型14気筒出力は改良型で1,200 hpになった。
第二次大戦中の爆撃機や戦闘機は、B-17空の要塞やP-51ムスタングの例を出すまでもなく、博物館や愛好家の手によって多くの機種が復元、展示されている。しかしこの飛行艇「PBYカタリナ」の復元機は極めて珍しい。
1930年代から1940年代半ばにかけて作られた米海軍向けの「PBY」飛行艇は、簡単、頑丈、軽量、容易な操縦で評価され、米海軍のみならず英国、カナダ、オーストラリアなどで多く使われた。「PBY」は、パトロール、つまり哨戒が任務だが、人や貨物の輸送、洋上に不時着した機体からの人命救助、対潜攻撃、など多くに任務に使われた。大戦末期、東京空襲に参加したB-29爆撃機が撃墜され、乗員が東京湾に落下傘で降下すると、危険を冒してしばしば救助に飛来していた。
「PBY」の操作性の容易さについての表現に「80ノット(時速150 km/h)の素晴らしさ」(An 80 knot marvel)」と云う言葉がある。これは「離陸(水)は80 knots、上昇も80 knots、巡航も80 knots、そして着陸(水)も80 knotsで可能」という意味である。
「PBY」にはフラップがなく、パイロットは計器を見ずに外を見ながら操縦していた。フライト・エンジニアが乗っていたが、胴体上の主翼を取付けるパイロンのなかに座席があり、そこでエンジン出力を調整していた。また長距離を飛ぶので調理場があった。胴体内部は潜水艦のように数個の区画に分かれ水密ドアで仕切られていた。最も多く生産された「PBY-5A」は、油圧で作動する引込み式車輪を備え、水陸両用機となり、これで活動範囲が一層広がった。ノーズギアにはステアリング機構がないので、陸上での方向変換はエンジン出力を左右変えて行うようになっている。
復元機は、サンデイゴ(San Diego, Calif.)にある ”Greatest Generation Naval Museum”の設立者ジム・スラッタリー(Jim Slattery)氏の手によるものである。同氏の解説による「PBY」の紹介動画があるので、タップしてご覧頂きたい。
図2:コンソリデーテッド(Consolidated)製PBYカタリナ(Catalina)飛行艇は、第二次大戦中、太平洋や大西洋での大きな戦いで広く使われた。1933年に米海軍の要求で作られた試作機「モデル28」は、主翼を胴体上部にパイロンで背負う高翼型、翼端には引込み式フロートを備え、のちの改良型と外見はあまり変わらない。
エンジンはP&W製R1830を2基、乗員は7-10名、武装は7.7 mmまたは12.7 mm機銃を3挺、必要に応じ900 kg爆弾を携行できた。1935年に量産型機が初飛行、海軍は直ちに60機を発注し、翌年秋から配備を始めた。その後エンジン出力の向上、細部の改良、陸上離着陸を可能とする車輪装備などが行われ、「PBY-5A」となり、英海軍がつけた呼び名「カタリナ」が使われることになった。改良では、レーダーと磁気感知器( MAD=Magnetic Anomaly Detection)が装備され、太平洋での対日戦だけでなく、大西洋、地中海での対Uボート作戦で大きな成果を挙げた。
—以上—
Greatest Generation Naval Museum PBY
National Naval Aviation Museum “PBY-5A CATALINA