2016-08-31(平成28年) 松尾芳郎
2016-09-01改訂(字句の訂正等)
図:(Willium Boeing Department of Aeronautics & Astronautics College of Engineering, Univ. of Washington)博物館に保管されている747初号機の前に立つジョー・サター氏の近影。
首都ワシントンにあるスミソニアン航空宇宙博物館(Smithsonian National Air and Space Museum)から「747の父(Father of the747)」の称号を与えられたジョー・サター(Joe Sutter)氏が8月30日に亡くなった。95歳だった。サター氏はボーイング747のチーフ・エンジニアだったが、747型機は最初の広胴型機として誕生し、世界の大量輸送時代の幕開けの先駆けとなった。
スロベニアの移民として17歳でシアトルに移住し精肉工場(Union Packing Co.)で働く父(Frank Sutter)とオーストリア移民の母(Rosa Plesik)の間に、5人兄弟の4男として1921年3月21日に生まれた。少年時代から飛行機が好きで、ワシントン大学の航空学科で学びながら、最初の学期からボーイングでパートタイムの組立工として働いた。
戦後、米海軍の航空技術学校で学んだのちに、ボーイングでエンジニアリングの仕事に就いた。
サター氏は、ボーイング初の短距離旅客機727の仕事にも携わり、当時としては複雑精緻なフラップの設計を担当した。737の設計では、ボーイングの著名な設計家ジャック・スタイナー(Jack Steiner)氏と協力して、エンジンの取り付け位置を、それまでのDC-9やBAC-111などで主流だった尾部から主翼下面に移すという革新的な決断をした。サター氏とスタイナー氏は、737の設計に関連して「サター氏のエンジン取り付け位置」と「スタイナー氏の横6席配置の胴体」の特許料として、会社からそれぞれ$50を受け取っている。
1965年のことだ。サター氏は“これで十分”と後の自叙伝で述べている。なぜなら航空宇宙産業は、個人的に金を稼ぐ産業ではないし、このアイデアが会社にとって利益をもたらし続けているからこれで良い、と語っている。
サター氏は、1965年以降から747の設計で一躍世に知られるようになった。サター氏は、2階建、2通路の客席で、それまでの大型機707の2倍の胴体幅を持つ広胴型機747の設計を最初の構想段階から指導した。胴体断面は、2つの通路を持ちエコノミー座席を10席横に並べて配置でき、また貨物搭載の場合は標準型パレットを2個並べる、幅とした。そして貨物機とする場合、メインデッキに貨物パレットを搭載し易いように、操縦室を2階席の前に持ち上げた。
後年、ボーイングで初の“Operation and Product Development”担当VPとなり、それから”Engineering and Product Development”担当専務取締役(Ex VP)に就任した。これらの担務を通じてサター氏は、非常に成功した757および767の開発に多大の貢献をした。1986年には40年間にわたるボーイング勤務を終え退任したが、これに際し時の大統領ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)氏から米国国家技術勲章(US National Medal of Technology)を授与された。
サター氏はまた、1986年に起きたスペース・シャトル・チャレンジャー(Challenger)の爆発事故の調査をする大統領委員会(Presidential Commission)の委員を務めた。サター氏は退任後も今年まで顧問を務め、747-400および747-8の開発に協力してきた。そして特にアジア太平洋地域のエアラインを歴訪し、将来の航空機の要件についての調査を行ってきた。
サター氏が構想し設計、製作した747型機は1969年の寒い冬2月9日に初飛行に成功し、1970年1月22日、当時のパンアメリカン航空で初めて就航した。以来2016年7月までに1,523機が作られている。現在の受注残は747-8型の20機(旅客型10機と貨物型10機)となっている。我国でも日本航空で一時期100機ほどが使われていた。
—以上—
本稿作成の参考にした主な記事は次の通り。
Air Transport World Aug 30, 2016 “Legendary 747 designer Sutter dies age 95” by Guy Norris
Smithsonian Books “747” by Joe Sutter with Jay Spenser