2016-09-30(平成28年) 松尾芳郎
図1:(Airport Journals) 晩年のアーノルド・パーマー氏と同氏の所有する「セスナ・サイテイションX (Cessna Citation X)」ビジネスジェット機。胴体側面に“傘”のロゴが見える。サイテイションXは原型機の初飛行が1993年9月、型式証明取得が1996年6月、直ちに初号機がパーマー氏に引き渡された。
「サイテイション」とはセスナの作るビジネスジェット機系列の名称で、これまでに7,000機ほどが作られた。最初のモデルはサイテイションIでModel 500と呼ばれ、1969年に初飛行、1085年まで造られた。サイテイションXはModel 750で10番目のモデルの新設計、これまでに300機以上が生産されている。セスナでは初めてのロールスロイス製AE 3007C推力6,500 lbsエンジン2基を装備、最新のハニウエル製アビオニクスを搭載、乗員2名、客席12席、最大離陸重量16 ton、航続距離約6,000 kmの高性能機。
プロゴルファーとして名声を博したアーノルド・パーマー氏は、同時に飛行機のコクピットで多くの時間を過ごしてきた。
セスナ航空機の会長で過去55年間パーマー氏の親友だったラス・メイヤー(Russ Meyer)氏はパーマー氏を評して次のように語っている。「彼はプロゴルファーと云うよりプロのパイロットだった。常に航空に情熱を燃やし続け、ビジネス機業界では職業パイロットとして重要な役割を果たしてきた。プロスポーツ界で飛行機の操縦をする人はいるが、彼ほどの人はいない。」
パーマー氏は若い頃に操縦を習い、生涯で19,000時間も機長席で乗務してきた。パーマー氏が亡くなったのは今年9月25日だったが、この日にメイヤー氏のもとには、親友の死を悼む数十件の電話やEメールが寄せられたという。
メイヤー氏がパーマー氏と初めて会ったのは1961年で、パーマー氏がブリテイッシュ・オープンで初勝利を収めた後だった。場所はクリーブランドの法律事務所で友人(Mark McCormack)から紹介されて知り合いとなった。
そこでパーマー氏がエアロ・コマンダー(Aero Commander) 500の中古機を$32,000で購入したことを知った。
メイヤー氏は語っている;—
「以来1960年代を通じて、ずっと彼の飛行機購入について助言をしてきた。そして1975年になって彼はセスナのサイテイション(Citation)を購入し、7機ほど買い換えて、最後は亡くなるまでサイテイションXを使っていた。」
「パーマー氏は操縦訓練にも真剣に取り組み、サイテイションの機種毎の操縦資格を取得してきた。30年もの間、彼はウイチタ(Wichita)にある訓練施設フライト・セイフテイ(FlightSafety)社に通い、メイヤー氏と家族とともに時を過ごしてきた。」
「パーマー氏の最後のフライトは2011年、パームスプリング(Palm Springs, Calif.)からオーランド(Orlando, Florida)までを自分でサイテイションXを操縦して飛行した。途中航路の管制を担当していた管制官たちはいずれもパーマー氏に“何時までも健康を祈る”との祝福のメッセージを送った。FAA(連邦航空局)はこの最終フライトの通信テープを作成、パーマー氏に贈っている。」
「パーマー氏は、正に航空界でもチャンピオンであった。」
「ビジネス航空業界として政府に政策を申し立てる必要があれば、彼こそが代表として最適任であったと思う。」
米国ビジネス航空機協会(NBAA = National Business Aviation Association)会長のエド・ボーレン(Ed Bolen)氏も同じ意見で、「パーマー氏は同協会の会議に出席し、しばしば演説を行うなどでNBAAの活動に貢献してきた。」と語っている。今年のNBAA大会と展示会では、パーマー氏の名誉を讃える献辞がなされる予定である。
パーマー氏は1929年9月10日ラトローブ(Latrobe, Penn.,)の生まれ、父が勤めるラトローブ・カントリークラブの近くで育ち、11歳でキャデイを始め、カレッジに進みゴルフ部で頭角を現した。卒業後1954年秋にプロに転向し以来内外の競技で92回優勝、そのうち61回は米国ツアーであった。マスターズで4回、ブリテイッシュ・オープンで2回、1960年のUSオープン、と優勝を重ねている。
パーマー氏が飛行機に関心を抱くようになったのは、20歳の時アマチュア・ゴルフ大会に参加するためDC-3型機に乗客で乗っていた際、雷雲の中を飛行中、火の玉が機内を通過するのを目の当たりにした。少年の頃から飛行機が好きだったが、これを契機に航空に対する興味が再燃し、模型飛行機の製作に熱中するようになった。
30歳を過ぎて1955年から飛行訓練を受け、翌年に自家用操縦士のライセンスを取得、後に“アーノルド・パーマー空港”と呼ばれるラトローブ空港で飛行するようになった。初めのうちは単発のセスナ172型を借りてツアーを転戦していたが、上述のように1961年になると双発のエアロ・コマンダー500を購入し使うようになった。これで国内であれば何処へでも飛んでいけるようになった。
1963年には最初のジェット機コマンダー560Fに更新し、スポーツ選手として最初の自己所有ジェット機パイロットとして知られるようになった。
図2:(Airport Journals)ラテローブ空港で、借りたセスナ172からゴルフクラブを持って降り立つパーマー。1950年代後半だから若くて颯爽としている。
図3:(Airport Journals)初めて購入したエアロ・コマンダー双発機、ラテローブ空港でバッグを下げて歩くパーマー。
—以上—
本稿作成の参考にした主な記事は次の通り。
Aviation Week Network Sept 28, 2016 “Aviation Losses Friend, Advocate with Ainold Palmer’s Passing” by Molly McMillin
Airport Journals Nov. 1, 2004 “Arnold Palmerzand His Chief Pilots – A Close-Keit Fraternity” by Staff Writer