明治神宮の創建100年‼ 明治日本の再評価へ!


2020年11月4日(令和2年)

2020-11-09 改訂 (文中に写真とその説明を挿入)

元 文部科学大臣秘書官  鳥居徹夫

 

11月1日は、明治神宮(東京都渋谷区)に明治天皇、昭憲皇太后が鎮座された日。今年で100年目にあたる。

明治天皇崩御の直後、大正2(1913)年に神宮造営が正式決定され、大正9(1920)年11月1日に鎮座祭が執り行われた。

そして11月3日は明治天皇の誕生日。11月3日は、いまは「文化の日」となっているが、明治期には天長節、昭和初期には明治節として国民の祝日とされた。

また、一昨年の平成30(2018)年は、「明治150年」であり、その直前の平成27(2015)年には「明治日本の産業革命遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録された。

明治神宮

図1:明治神宮は令和2年11月1日で創建100年を迎えた。明治天皇崩御の直後大正元年8 月、実業家渋沢栄一・東京市長阪谷芳郎が明治神宮創建を西園寺首相・原敬内相に願い出、衆議院・貴族院の裁決を経て、大正4年に大正天皇告示として建設が決まった。費用は、首相以下台湾朝鮮を含む全国民からの寄付約700万円が充当され、内苑および外苑の建設には全国から青年団延べ10万人が参加、勤労奉仕で行われて完成した。先の大戦中米空軍B-29の爆撃(昭和20年4月14日と同5月25日)で本殿など社屋が焼失した。戦後すぐには米海軍将官を含む将兵が参拝している。その後全国からの復興資金、浄財が集まり、復元工事が進み現在の社殿に復旧したのは、1958年(昭和33年)である。

 

一般公開された明治日本の「産業遺産情報センター」 

『明治日本の産業革命遺産』は、平成27(2015)年にユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界遺産に登録された。この世界遺産を展示した「産業遺産情報センター」(東京都新宿区)が6月から一般公開された。

センターが公開されて以降、韓国は大きく反発した。また日本国内でも多くのメディアが取り上げられた。

報道だけをみると、軍艦島と呼ばれる長崎市の端島だけが明治産業遺産であるかのような錯覚に陥ってしまう。

この『明治日本の産業革命遺産』は、岩手や静岡、長崎や鹿児島など、8県11市23資産で広域にわたり、また現役で稼働しているものが8資産ある。

三菱重工㈱長崎造船所の第三船渠やジャイアント・カンチレバ-クレーンは、現在も稼動している。

海外では、現役の稼働資産や、シリアルノミネーション(広範囲に点在する資産で、全体として普遍的価値を有するもの)も、産業遺産としてユネスコに登録されている。そして日本においても、同様にユネスコは産業遺産として世界遺産に登録した。

この『明治日本の産業革命遺産』は、軍艦島(端島炭鉱)のほか、釜石の橋野鉄鉱山・高炉跡、静岡の韮山反射炉、人材を育てた萩市の松下村塾と萩城下町、鹿児島市の寺山炭窯跡や旧集成館、さらには長崎の造船所、福岡の八幡製鐵所、三池港、三池炭鉱などで構成される。

その対象期間は、ペリー来航の1853(嘉永6)年からロンドンで日英博覧会が開かれた1910(明治43)年まで。この1910年は、産業国家として日本がデビューした年とされる。

幕末から明治にかけ近代化を成し遂げた日本の産業資産の歴史的価値を、世界が称賛したのであった。

伊豆韮山の反射炉

図2;静岡県伊豆韮山に建設された韮山反射炉。1853年(嘉永6年)ペリー来航で幕府は江戸湾防衛のお台場と大砲鋳造の反射炉の建設を決定、代官江川英龍が蘭書を参考にして韮山に建設を開始、英龍没後は嫡子の英敬が佐賀鍋島藩の応援を得ながら完成した。反射炉とは、不純物を多く含む粗製の鉄を千数百度の高温で溶かし優良な鉄に変える炉。炉の天井をお椀型にして、下から上がる熱、炎を反射して高温を得ていた。溶け出した鉄を鋳型に入れ大砲を製造した。1864年まで使われたが、それまでに18ポンド・カノン砲や青銅製野戦砲などを鋳造した。

橋野鉄鋼山ー釜石市

 図3:岩手県釜石市の橋野鉄鉱山趾。釜石にある橋野鉄鉱山は良質の鉄鉱石が採掘できたことで知られる。後述のように、盛岡藩士大島高任は、この鉱石を使い1856年(安政3年)に釜石市甲子町に高炉を建設、溶けた鉄を連続出銑させることに成功。続いて数年後に釜石市橋野町に蘭書を参考にしながら洋式高炉を建設し、釜石地区に合計7箇所、13基の高炉を建てた。これを基に明治政府は1874年(明治7年)に官営釜石製鉄所の建設を決定、我が国の製鉄業の基礎となった。この写真は我が国最古の洋式高炉の跡である。残念ながら当時の高炉は現存していない。

終戦間際の軍艦島は、昭和であって明治ではない 

公開された「産業遺産情報センター」には、対象期間の幕末明治と全く異質な昭和19~20(1944~45)年の戦時の軍艦島(長崎市の端島)の展示コーナーがある。

それは日本の政府(外務省)が、平成27(2015)年のユネスコの世界遺産委員会に、先の大戦の終盤に勤労動員(国民徴用令)や、軍艦島に「朝鮮半島出身者がいたことを明示すること」などを約束したためとされる。

言うまでもなく、それは世界遺産が対象とする期間ではない。終戦間際の軍艦島は、昭和であって明治ではない。

かねてより韓国政府は、猛烈な反日ブロパガンダを展開している。それは史実をゆがめた慰安婦の強制連行であり、先の大戦時における徴用工の強制労働キャンペーンである。

日本の世界遺産登録を妨害するため、韓国政府がユネスコで配布したチラシには、別の炭鉱で働いていた日本人労働者の写真が使われていた。写真の労働者は、朝鮮半島出身者ではなかった。

いわゆる慰安婦問題では、世界中で日本を貶めるプロパガンダを展開し成功した韓国だったが、韓国慰安婦団体の内紛もあり、また遅かりしとは言え、日本政府・外務省から反論が行われてきたことから、反日キャンペーンの効果が薄れた。

すなわち慰安婦の「強制 連行」「20万人」「性奴隷」の3つのウソが明らかにされたことから、次なる反日キャンペーンの材料として、韓国が取り上げたのが「戦時中の徴用工」であった。

 

ウソの歴史を、日本は受け入れよ」という無理難題の韓国 

韓国外務省は6月15日、「産業遺産情報センター」が公開されたことについて、「施設の展示に日本が約束した後続措置が全くなされていないことに強く抗議する。歴史的事実を完全に歪曲した内容が含まれ、甚だしく遺憾である」との声明を発表した。

昭和19(1944)年9月以降、国民徴用令に基づいて働いていた朝鮮半島出身者がいたが、韓国側の言うような強制労働ではなかった。

どこでもそうだったように、当時の炭鉱労働は職場環境が過酷であった。「産業遺産情報センター」には、このことはきちんと明示され、また労働者には内地人(日本人)とともに朝鮮半島出身の人がいたことも展示されている。

しかも国民徴用令は、賃金の支払いを伴う合法的な勤労動員にすぎず、朝鮮半島出身者も内地人も同じように働いていた。つまり朝鮮半島出身者の強制労働は存在しなかったのである。

韓国は、史実を曲げたウソの歴史を日本に押し付けてきた。

韓国の言い分は、「ウソを展示せよ」「強制労働はなかったという事実を展示するな」というのである。

韓国は、ユネスコで日本は「本人の意思に反する朝鮮半島出身者の強制労働」を認め、「情報センターの設立を約束した」と強弁する。

ところが、そのような「本人の意思に反する強制労働」はなかった。要するに展示のしようがないのである。

「産業遺産情報センター」などが、現地で働いた経験のある人たち、そしてその家族らの証言を集めたところ、「強制連行され、差別的な地獄のような労働をさせられた」などという証言はなかった。もともとウソであった。

韓国は、軍艦島を「監獄島」などとレッテル張りをした。元島民は、そのようなことはないと否定した。当然である。

軍艦島では、朝鮮半島出身者も大事にされていたというのが歴史の真実である。

逆に父親が軍艦島の炭鉱で働いた在日韓国人二世の元島民からは、「いじめられたとか、あれは朝鮮人とか、そういったことは全く聞いたことがない」という証言しか出てこなかった。

明治43(1910)年の朝鮮合邦により、朝鮮半島の人々は日本国民であった。日韓併合は、イングランドとスコットランドが条約により合併し、国名を「イングランド」と称したようなものであった、と私は認識する。

台湾がそうであったように、武力による支配ではなかったし、流血の事態すらもなかった。つまり欧米諸国がアジア・アフリカに展開したような植民地(colonization)ではなかった。

言うまでもなく先の大戦時は、朝鮮半島の人々は「日本国民としての戦時徴用(勤労動員)」であり、賃金も支払われており、強制労働ではないことは歴史的事実なのである。

 

明治日本」「産業革命遺産」は、人類共通の価値を持つ 

「明治日本の産業革命遺産」は、北は岩手から、南は鹿児島まで8県(岩手県、静岡県、山口県、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、鹿児島県)、11市(釜石市、伊豆の国市、萩市、北九州市、中間市、大牟田市、長崎市、佐賀市、荒尾市、宇城市、鹿児島市)の広域に立地する23資産で構成される。

三菱重工業㈱長崎造船所や日本製鐵㈱八幡製鐵所など民間企業の現役の産業設備、三池港といった大規模な工業関連施設なども含まれている。

幕府が200年余の長きに渡って鎖国政策をとり、西洋科学に門戸を閉ざしていた。

その東洋の島国が、わずか半世紀で工業立国の土台を築き、急速に産業化した道程を、時系列に沿って物語っているのが『明治日本の産業革命遺産』である。

すなわち、わが国の重工業(製鉄・製鋼、造船、石炭産業)におこった大きな変化が、日本の半世紀の産業化をあらわしている。

日本は、西洋技術を取り入れながら、自らの力で人を育て、産業を興し、産業国家となった。

海外の科学技術と自国の伝統の技を融合し、わずか50年あまりで産業化を成し遂げた日本の姿は、人類共通の遺産としてふさわしく普遍的な価値を持つ。

日本の一部には、韓国が難グセをつけるから、ユネスコ世界遺産を返上すればよいという意見もあるという。それはユネスコを通して評価された明治日本の世界的価値を、日本自らおとしめることにつながる。

それどころか逆に、韓国をますます勢いづかせ、一層の悪乗りを誘発することになりかねない。

韓国が「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録への反対姿勢を強めたのは、平成27(2015)年5月4日にイコモス(国際記念物遺跡会議、ユネスコの審査機関)が世界遺産登録をユネスコに推薦した以降であった。

日本がユネスコに世界遺産登録を申請したのは、その前年。平成26(2014)年であったが、その時点では韓国からは反発らしきものはなかった。

世界遺産登録を審査するユネスコの世界遺産委員会(2015年7月)で、韓国は日本を激しく誹謗した。

いまも韓国が激しく展開するプロパガンダは、韓国がユネスコで展開した反日キャンペーンを肉付けにしたもののように見える。

その執拗さは、「産業遺産情報センター」が公開された令和の御代になっても終わらない。

史実の歪曲、歴史の捏造をしていたのが韓国である。

このような日本を貶めるヘイトに対し、政府も民間も、韓国に謝罪と反省を求めていかなくてはならない。

ウソのプロパガンダを打ち砕き、正しい歴史と真実を世界に拡散することこそ、今を生きる日本人の任務であり役割である。

外圧という困難な時代でありながら、産業国家をとなった明治日本の重みを認識することが、いままさに歴史教育に欠かせない。

世界に誇る『明治日本の産業革命遺産』を、正しく評価しアピールすることが日本に求められる。

佐賀市の三重津海軍所跡

 図4:佐賀鍋島藩により建設された三重津海軍所はわが国最初の海軍造船所。鍋島藩は1858年(安政5年)ここに御船手稽子所を設置、これが三重津海軍所の始まり。アヘン戦争(1840年・天保11年)でイギリスが清国に勝利すると、イギリスの進出に危機感を抱いた佐賀藩は洋式海軍の必要性を痛感、1859年(安政6年)に三重津施設の強化を決定、1861年までに洋式船建造や操艦訓練を行う三重津海軍所に改めた。日本初の実用蒸気船「凌風丸」は1865年(慶応元年)ここで建造された。同時期に佐賀藩では、佐賀市日野小学校付近に築地反射炉を建設し大砲を鋳造、また佐賀市多布施町に多布施反射炉を建設している。多布施反射炉製の大砲は、上野に陣取った彰義隊攻撃に使われ、また江戸湾防衛用のお台場砲台にも設置された。

 

主権と独立を守るには、まず自前の大砲と軍艦をつくること 

日本は、ペリー来航から約50年で近代的な産業国家を建設した。

徳川幕府は、200年余りにわたって国を閉ざし、外洋を航海する大型船の建造を固く禁じていた。

幕末から明治にかけてアジア地域は、ヨーロッパ諸国の強大な武力によって制圧され、その波が日本にも押し寄せようとしていた。

ペリー来航の10数年前、1840~42年のアヘン戦争で、中国大陸の「清国」はイギリスに大敗し、「清国」は領土の割譲(香港など)と莫大な賠償金を支払わされた。

日本も、このままでは「清国」のように悲惨な状況になってしまう。

この危機に直面し、幕府は海防の危機感から長年の方針を転換して蒸気船と鉄製大砲の建造に挑戦した。

主権と独立を守るためには、自前の大砲と軍艦をつくることが、幕末から明治にかけての日本のミッションであった。

欧米諸国は、煙を上げて走る蒸気船と遠くからでも撃てる大砲を持っている。日本を植民地化から守らなくてはならない。

そこで日本は、海軍を作ろうと考え、長崎の海軍練習所などで、洋式舶用機器に挑戦した。

産業国家建設による国の発展を願った若い志士たちの熱い思いが原動力となり、試行錯誤が繰り返された。

それらが今日の、世界に冠たる「ものづくり立国」の屋台骨を作ったと言えるのではないだろうか。

19世紀後半から20世紀の初頭にかけ、日本は工業立国の土台を構築し、造船、製鉄・製鋼、石炭と重工業において急速な産業化を成し遂げた。

一連の明治日本の産業革命遺産群は、西洋の技術が移転され、日本の伝統文化と融合し、実践と応用を経て産業システムとして構築される産業国家形成への道程の生きた証言と言っても過言ではないと感じる。

 

幾多の困難をのりこえ、産業国家をつくり上げた日本 

海外の科学技術と自国の伝統の技を融合し、わずか50年あまりで産業化を成し遂げた日本の姿は、世界でも稀有であり、人類共通の遺産としてふさわしい、普遍的な価値を持っている。

盛岡藩士の大島高任(1826~1901年)は鉄鉱石を原料に洋式高炉で鉄をつくった。日本を守りたいという海防の一念から、反射炉をつくり蒸気船に挑戦した。

大島高任は、1856(安政3)年に水戸藩那珂湊〈なかみなと、現ひたちなか市〉で反射炉による大砲の鋳造に成功(注―那珂湊の反射炉は現存しない)。翌1857(安政4)年、盛岡藩大橋(現釜石市)に洋式高炉を建設し、12月1日に日本初の鉄鉱石を原料とする洋式高炉での連続出銑に成功した。

大島高任は、日本近代製鉄の父と呼ばれている。

反射炉や高炉での連続出銑の成功は、日本の近代化における先駆的な出来事であった。しかも短期間で達成された。

≪参考≫日本製鐵ホームページ・近代製鉄の父・大島高任https://www.nipponsteel.com/works/east_nippon/kamaishi/about/takatou.html)

また英国のグラスゴーの造船所で学び、後に工部卿となり「明治日本の工業の父」と称された山尾庸三(1837~1917年)は「人を作れば、その人、工業を見いだすべし」との格言を残した。

人材の育成においても、多くの藩校や松下村塾(山口県萩市)などが、多くの指導者を輩出した。

明治日本の先駆者たちは、日本の主権と独立を守るため、獅子奮迅の奮闘の連続であった。

幕末・明治という変革期は、幾多の困難をのりこえ、産業国家をつくり上げた。そしてその現存する遺産群が、世界遺産となった『明治日本の産業革命遺産』なのである。

 

日本の歴史、正しい近現代史を子や孫たちに 

一昨年(平成30年、2018年)は、明治150年であった。

その明治150年を切り拓いたのは、近代産業国家づくりを目指した明治の先駆者たちであった。明治日本を生きた先駆者の情熱と苦闘が、日本はもとより世界に評価されたのである。

ところが、外務省の役人、外交官はもとより、日本のマスコミ関係者、文科省の役人や学校の教師も、明治日本の歴史を知らない。それゆえ外務省は、ユネスコなど外交の場でも、自国の歴史の説明ができない。

私たちは、自国の歴史と伝統文化に誇りを持たなくてはならない。

いまの日本は、近現代史について情報を発信しない。発信しないということは、言われっぱなしとなる。

これに対し、中国や韓国は、「日本は悪い国だ」の大合唱。

国際化がすすむにつれて、日本のアイデンティティが、国内外とりわけ国内で問われている。

「日本を取り戻す」という作業は、これら史実に反する言いがかりに対する目潰し作業であるとともに、日本の若者・青年にロマンと勇気とパワーを与えるものを、提供していかなくてはならない。

まさしく、その意味で「教科書で教えたい」のが、「明治日本という激動の時代」と「その時代を生き抜いた先駆者たちの気概と情熱」である。

 

明治日本を正しく評価し、国内外に発信を 

これまでも明治という時代は、廃藩置県や文明開化、四民平等の近代国家づくり、富国強兵などが、教科書や歴史書で一応は羅列されてはいるが、それだけで終わっている。

日本の学校教科書からは、世界が「明治日本」を注目し評価する意義すらも伺えない。ましてや感動もない。

とりわけ欧米の列強によるアジア・中国の植民地化が進む中で、日本は国難といえる日清戦争や日露戦争という祖国防衛戦争を勝ち抜き、主権と独立を守った。そして産業国家の仲間入りを果たし、幕末に欧米諸国と締結した不平等条約を平和裡に改正し、関税自主権の確立、領事裁判権撤廃などを実現させた。

国内では明治憲法の制定、議会開設、さらには五箇条の御誓文、学制発布、教育勅語など精神文化の面でも目を見張るものがあった。

「明治日本」に、世界が驚愕した。

この「明治という時代」の重みこそ、日本の学校で教え、日本の教科書にしっかりと載せなくてはならない。

「産業遺産情報センター」を、韓国が非難攻撃してきたことにより、『明治日本の産業革命遺産』がメディアで取り上げられ、思わぬ脚光を浴びることとなった。

世界から評価された『明治日本の産業革命遺産』を通して、明治という時代を振り返り、その苦闘の歴史を学び、令和の御代に継承していくことが強く求められている。

明治という変革期、激動期にあって、明治日本の先駆者たちの苦闘とその気概を、あらためて認識し継承することが、いまを生きる私たちに問われていると痛感する。