2021年01月25日 元文部科学大臣秘書官 鳥居徹夫
新型コロナ禍の1月に、大学入試共通テストが実施された。
今年は、関係者の努力もあり感染対策など万全を尽くしたこともあり、トラブルは少なかった。
いつも思うのだが、毎年この時期の入試は、インフルエンザや寒さ対策、雪による交通トラブルの問題が生じ、受験生の健康管理などの問題点が指摘されている。
ところが文部科学省や学校関係者には問題意識が欠如し、冬の試験を改善しようとする意欲すらない。
◆コロナ禍の対応に追われた学校教育
昨年3月から、ほとんどの学校が休校となった。全国一斉の休校措置が、新型コロナの感染拡大防止に向け行われたことは、記憶に新しい。
昨年4月7日に緊急事態宣言が出され、対象期間は当初ゴールデンウィーク終了までとされていたが、そののち5月23日まで延長された。
ほとんどの地域が5月末まで休校となった。翌年3月までに学年を終えるには、1日7時間授業、土曜日も登校、夏休み冬休みも期間短縮、体育祭や文化祭、修学旅行などの学校行事を縮小・中止すれば何とかできるというのが、文部科学省のスタンスであった。
昨年、このような状況から急浮上したのが、「秋季(9月)入学・始業」への移行であった。
つまり幼稚園、保育園、小中学校、高校、大学など、すべての教育機関が学年を5ヵ月間長く在籍すれば、すべてが次の年の9月から新学年のスタート台に立てることになる。
本来、「9月入学への移行」は、コロナ禍の緊急対応ではなく、社会や制度全般に大きな変革をもたらすものであるが、一時的なコロナ対応のように喧伝され、国民の関心事にはならなかった。
文部科学省や学校関係者が「9月入学」に強硬に抵抗した。そのため政府の方針は、「引き続き検討を進める」にとどまった。
◆「4月入学・始業」にこだわる文部科学省と学校関係者
学校関係者や文部科学省には、秋季(9月)入学へ移行期の対応を理由に反対論を展開した。
来年の小学1年制の入学時期が秋にずれ込めば、移行期の4~8月に、新たな児童の受け入れ問題が生じ、幼稚園、学童保育などで待機児童が増加し、そのための保育士や教員の人員確保、そのための財政措置も必要とされるという理由である。
さらには「9月入学・始業」は、企業等の就職活動・採用日程、公的資格試験の実施日程とのズレるとの指摘もなされたが、これは現行の3月卒業をもとに組み立てられたもので全く問題はない。
このほか学校の年度と、国や自治体との会計年度と食い違う国も多いが、支障は存在しない。
にもかかわらず文部科学省は、9月入学移行の動きに危機感を深め、旧来からの「4月入学・始業」にこだわった。
◆大きく混乱・疲弊した教育現場
昨年春には休校措置がなされ、現場は大きく疲弊していた。
学校は昨年6月から再開されたが、子供や教員らへの負担が大きくなった。
休校した分については、夏休みなどを用いて授業保障を行うとしているが、生徒の精神面、入試の公平性などの問題も出てきた。
「学校における働き方改革」が叫ばれ、ただでさえ教員は長時間勤務(毎日11時間とも)で多忙であり、児童生徒に目が届かず思わぬ事故も起きかねない。
一昨年(2019年)に成立した「学校における働き方改革法(教員給与法改正)」により、令和3年度(2021年度)から夏休みなどで「休暇のまとめ取り」が規定されたが、コロナ感染拡大の状況次第では夏休み休暇すらも取れないのではないか。
休校による学習の遅れを取り戻すために、さらに長時間労働という連鎖になりかねない。
感染状況や、オンライン教育導入の有無、さらには児童生徒の学習の進捗度の相違などがあり、学校が再開しても地域や学校によってバラツキが生じ、大幅な進度の差が出る。
◆「9月入学」は、社会全体の「国際化」「多様化」を進展させる…
そもそも日本では、明治のはじめ9月入学が主流だったが、途中から教員養成の高等師範学校(現筑波大学)が4月に。続いて旧制中学校、小学校が4月入学になった。
立命館大学の上久保誠人教授(政策科学部)によると、「9月入学・始業」は、日本の教育のみならず、社会全体の「国際化」「多様化」を進展させるという。
とりわけ大学にとって、① 優秀な留学生を受け入れやすい、② 優秀な海外の若手研究者・教員を受け入れやすい、③ 海外の大学との交流を加速できる、などのメリットがある、と指摘する(2020/05/04ダイヤモンド・オンライン)。
「秋季入学への移行」は、学校教育にとどまらず、社会全体の仕組みの変更にも影響を与える。
秋季(9月)入学については、これまでにも論議され、移行の必要性が提起されていた。中曽根総理が設置した臨教審(臨時教育審議会、昭和59~62年、1984~1987年)である。
秋季入学について、臨教審は「夏休みが学年と学年の間に置かれる意義」を強調。「今日肥大化している学校教育の役割を見直し、家庭や地域の教育力を高めつつ、生涯学習体系への移行を進める視点から見ても大きな意義がある」と指摘した。
そして臨教審は「秋季入学に大きな意義がある」としながら、その方向性は打ち出したものの、移行すべく諸条件の整備と、丁寧な国民的合意形成を求めるにとどまった。
ところが国民的合意形成の努力は、令和の御代まで全くなされなかった。
◆学校の存在を客観視できたコロナ休校
児童生徒の日常から、学校が隔離されたのが、今回の感染拡大であった。その中で学校と教育が内在する多くの問題が浮き彫りにされた。
昨年春に、学校が長期の休校になったが、そのため子供も親も、学校とそこで働く教師、そして教育というものを客観的に見ることができたことである。
ありていに言えば、学校を地域社会の「ワン・オブ・ゼム(oneofthem)」という位置づけができたことであった。
それまで子供も親も、学校を中心に生活があったが、コロナ休校でそれがなくなった。宿題が与えられることがあっても、自分で生活リズムを構築し行動するようにせざるを得なかった。
また子供が家族の一員であることを自覚し、親と一緒に家事を手伝うとか、さらには学校とは違う発想を広げる契機にもなりえた。
◆学校や教育行政は、あくまでも手段・道具
児童生徒の日常から、学校が隔離されたのが、今回の感染拡大であった。その中で学校と教育が内在する多くの問題が浮き彫りにされた。
そもそも教師など教育関係者は、自身が子供の時から定年まで、学校以外の世界を知らずに生きていける特異な世界であり、とりわけ日本では「学校を中心に地球が回っている」かのような感覚である。
そして学校や教師に、親や子供は合わせるのが当然という態度を見せがちである。
子供の教育権は、親(または準ずるもの)にある。学校や教育行政は、あくまでも手段・道具であり、教師はその手助け役なのである。
民法820条には「親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う」と明記されている。
これまでも指摘されていたが、日本の親は「子供を学校に行かせることには熱心だが、教育には無関心」「日本の親は、学校に子捨てしている」のが実態と言えよう。
先に述べた臨教審は、昭和62(1987)年8月に「学校教育の肥大化に伴う弊害の是正」を最終答申でアピールした。つまり「学校収容型のステイ・スクール」からの脱却であり、その意識改革である。
子供の教育の責任は親であり、学校や行政はツール(道具・手段)という本来の姿に戻すことが必要とされ問われている。
◆学校観の抜本転換をはかろう
コロナ感染拡大防止のため、活動自粛などで社会全体の停滞を余儀なくされている。
「災い転じて福をなす」ではないが、秋季(9月)入学・始業への移行や教育観の抜本改革に向けたチャンスでもあった。
秋季入学は、教育改革ではなく社会改革なのである。
ポストコロナに向け、世の中がデジタル革命が進行しつつある中で、教育現場もオンライン化が進まなくてはならないが、「文部科学省や教育行政は、19世紀に向かって走っている」と皮肉られている。
残念ながら秋季(9月)入学への移行は頓挫したが、政府の方針は「引き続き検討を進める」としており、移行へのリーダーシップを発揮し、政労使それぞれが国民的合意形成に努めることが望まれる。