『日航・松尾ファイル』の出版(上)ー書き下ろしたその意味を伝えたいー


2024-7-1(令和6年)木村良一(ジャーナリスト・作家 元産経新聞論説委員)

図:帯を付けたカバー(右)とそのカバーを外した表紙。後部圧力隔壁の写真と事故調査報告書から転載した解説図などでデザインされている

 日航ジャンボ機墜落事故を扱ったノンフィクションを出版した。1985(昭和60)年8月12日、日航機が御巣鷹の尾根に墜落して520人が亡くなったあの航空事故である。この夏40年目の節目を迎える。なぜ、航空史上最悪の事故は起きたのか。上・中・下の3回に分け、拙著の内容を紹介しながら事故の真相に迫る。

■「真相を後世に残さなければ…」

 新聞記者になる前だった。大学時代、慶大新聞研究所(現メディア・コミュニケーション研究所)のゼミでこんなことを学んだ。

 「たとえば、ジャングルや砂漠のど真ん中で独り息絶え絶えになりながらも、死ぬ前に書き残したいことがあるとする。しかし、ペンと紙がない。そんなときどうしたらいいのか。自分の指を噛み切ってその指の血で石や板に書く。それがジャーナリストではないか」

 この教えが役に立っている。ジャーナリストを長く続けていると、書き留めて後世に残さなければならないと思うことが出てくるからである。『日航・松尾ファイル』もこの思いで書き下ろした。

 まず、拙著の概要から述べよう。6月27日、徳間書店から2000円(本体価格)で発売された。ハードカバー240ページの書き下ろし。いまどき珍しい2段組みの本文は、序章と6つの章で構成され、序章を除く各章の中に5つの項を設け、1~30の通し番号を付けている。墜落事故当時の写真や事故調査報告書から抜粋した図表をふんだんに掲載し、当時から現在までの動きが分かるように年表も添えた。

 サブタイトルが「日本航空はジャンボ機墜落事故の加害者なのか」である。この一文に取材して強く感じたその思いを込めた。拙著で言いたいことはこれがすべてである、と言い切ってもいいだろう。

 第1章と第2章では、墜落事故の発生状況と迷走飛行する機内の様子、それに主人公の松尾芳郎氏の事故原因についての推理を加え、第3章から第6章でその後の事態の推移をまとめ上げた。松尾氏は技術・整備畑を歩んだ日航生え抜きの航空エンジニア(技術者)である。1930年9月21日生まれだから当時54歳、現在93歳になる。第5章「事故調は申し入れをことごとく無視した」と第6章「警察の執拗な取り調べに立ち向かう」では、苦境に立たされてもくじけることのない松尾氏の強さを描いた。

■隔壁が破断して操縦不能となる

 墜落事故はどのようにして起きたのか。1985年8月12日午後6時12分、日航123便(B-747型ジャンボ機、国籍・登録記号JA8119)は乗客乗員524人を乗せ、羽田空港を離陸した。しかし、その12分後に突然「ドーン」という大きな音を上げて後部圧力隔壁が破断し、客室内の与圧空気がその裂け目から一気に噴き出した。

 客室と機体尾部の非与圧空間とを仕切っているのが、大きなお椀の形をした後部圧力隔壁だ。噴き出した与圧空気の力はすさまじく、垂直尾翼を内側から吹き飛ばすとともに機体をコントロールするすべての油圧系統を破壊した。機体は操縦不能となった。機長たちは何が起きたか分からず、32分間の迷走飛行を強いられた末、午後6時56分過ぎ、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落した。520人が命を落とし、助かったのは女性4人だけだった。

 この7年前の1978年6月2日、JA8119号機は大阪国際空港で着陸時にしりもち事故を起こし、機体尾部を破損した。日航は修理をアメリカのボーイング社に任せた。だが、後部圧力隔壁の修理でミスを犯し、隔壁の強度が落ち、飛行を繰り返すうちに金属疲労から亀裂が生じ、隔壁は飛行中に風船が破裂するように破断した。これが日航ジャンボ機墜落事故だった。

■航空業界の父「松尾静磨」が父親だった

 墜落事故の発生時、松尾氏は取締役整備本部副本部長で、日航社内の事故調査では最高責任者となった。しりもち事故のときには技術部長として修理に関わった。松尾氏の父親は、航空保安庁の初代長官や日航の2代目社長、5代目会長を歴任し、「日本航空業界の父」として知られるあの松尾静磨氏(1903年2月~1972年12月、享年69歳)だった。

 そんな航空の申し子のような松尾芳郎氏が、日航ジャンボ機墜落事故では業務上過失致死傷の罪に問われ、警察と検察の取り調べを受ける。群馬県警の取り調べでは「お前」「あんた」と呼ばれ、任意の取り調べにもかかわらず、殺人事件の容疑者のように何度も怒鳴られ、刑事責任を容認するよう強要された。取調官に「警察をなめるな」「俺の言うことが分からないのか」「こんなことでは逮捕勾留しての取り調べもある」と脅かされた。人権を無視した理不尽な取り調べだった。

 それでも松尾氏は自分や日航に過失のないことを取調官に繰り返し説明して自らの正当性を主張した。そして日航、運輸省、ボーイング社の関係者とともに前橋地検に書類送検されたが、結果は全員の不起訴(1989年11月)で終わっている。松尾氏は当時、警察や検察の取り調べの内容を細かくノートに記録していた。それをまとめ上げ、警察と検察に提出した資料や書類といっしょに保存してきた。これらをもとに取材を重ね、意味付けして1冊の本にまとめ上げた。それが『日航・松尾ファイル』である。

■ファイルそのものが特ダネだ

 最後に「疑問が次々と湧いてくる」と付けた序章を見てみよう。序章はこう書き出している。

 〈航空史上最悪の「日航ジャンボ機墜落事故」のあるファイルを手に入れた。入手のいきさつは後で説明するが、「手に入れた」というよりも「託された」のだと思っている。もちろん、このファイルが外部に出るのは初めてのことである〉

 前述したように松尾氏がまとめたノートの記録や資料が「あるファイル」で、その公表は拙著が初めてだ。つまりファイル自体が特ダネ、スクープなのである。

 ファイルを読み込むと、警察や検察が松尾の刑事責任を厳しく追及する様子がよく伝わってくる。それにしてもどうして群馬県警は刑事立件にこだわり、やっきになったのか。群馬県警が取り調べを始める前にボーイング社は「事故の原因は自社の修理ミスにある」と認めていた。ところが、群馬県警と検察(前橋地検、東京地検)は「日航が修理中及び修理終了直後の領収検査で修理ミスを見逃した」「その後の定期検査でも修理ミスによって発生する亀裂(クラック)を見落とした」と判断し、理不尽で非情な取り調べを続けた。なぜだろうか。捜査の土台となった航空事故調査委員会の調査は問題なかったのか。背景に何があるのか。ファイルを読んで感じる大きな疑問である。

 序章ではこうした疑問点を並べ、その答えを第1章から第6章で解き明かしていく。(続く)

―以上―

◎慶大旧新聞研究所OB会によるWebマガジン「メッセージ@pen」の2024年7月号(下記URL)から転載しました。

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