日航・松尾ファイル』の出版(中) 事故調が捜査をミスリードした



2024-8-2(令和6年)木村良一(ジャーナリスト・作家、元産経新聞論説委員)

焼け焦げたJALのマークの入った主翼が痛々しい=1985年8月13日、群馬県上野村の御巣鷹の尾根。拙著79ページに掲載(提供・産経新聞)

1985年8月13日付の読売の夕刊。松尾芳郎氏はこの記事の写真を見て「隔壁の破裂→垂直尾翼の破壊→操縦不能→墜落」に気付く(読売新聞の縮刷版から)

犠牲者520人の冥福を祈る

 日航ジャンボ機墜落事故が8月12日、40年目の節目を迎える。墜落現場の御巣鷹の尾根(群馬県上野村)では遺族による慰霊登山が始まり、11日の夕方に灯籠流し、12日の昼には昇魂之碑の前でシャボン玉を飛ばし、安全の鐘を鳴らして航空関係者とともに空の安全への誓いを新たにする。長い歳月が流れて遺族の高齢化が進み、亡くなる関係者も多い。しかし、空の安全は次の世代にしっかりと引き継がれている。

 この夏も、墜落事故を取材してきたジャーナリストの1人として犠牲者520人の冥福を祈りたい。

 あの日も暑かった。拙著『日航・松尾ファイル』にもこう記している。

 〈1985(昭和60)年8月12日(月曜日)は高温多湿の蒸暑い1日だった。東京の最高気温は31・5度、最低気温は25・7度。西から太平洋高気圧が張り出し、関東周辺の大気の状態は不安定で、午前中は晴れていたが、午後から雲が出てきた。夕方になると、北関東の山岳部には積乱雲がいくつも発生した。大気はこの季節特有の湿り気を持ち、風は生温かく、それが夜まで続いた〉(1 ミステリアス)

 こんな真夏特有の天候のなか、日航ジャンボ機は午後6時12分、羽田空港の滑走路を離陸した。

 〈乗員15人、乗客509人(うち幼児12人)の計524人が搭乗していた。いつもはビジネスマンばかりの大阪行きの便もあすからお盆休みとなるだけに、帰省客や家族連れの姿も多く見られた〉(3 異常音)

■飛行写真から最悪のシナリオに気付く

 技術部門を統括する取締役・整備本部副本部長の松尾芳郎氏は社用車の中で墜落を知る。墜落事故当時は54歳で、現在93歳になる。

 〈松尾を乗せた社用車が首都高速1号羽田線を走っていたそのときである。緊急のニュースが車のラジオから流れた〉(1 ミステリアス)

 〈繰り返します。臨時ニュースを申し上げます。日航123便の機影がレーダーから消えました〉(同)

 〈ラジオのアナウンサーが読み上げた臨時ニュースに松尾は思わず、「大変なことが起きた」と声を上げ、不安に襲われた〉(同)

 〈「500人以上は乗っている。あすからお盆休みが始まる。帰省客や家族連れも多いはず」〉(同)

 墜落事故の翌朝、松尾氏は群馬県藤岡市の公民館に設置された日航現地対策本部に入って遺族の対応に追われた。

 〈松尾は部下が買ってきてくれた読売新聞の夕刊(8月13日付)に掲載された写真を見てハッとした。墜落直前の日航123便を東京都奥多摩町日原で撮影した写真だった。かなり引き伸ばたのだろう。日航123便の影はぼやけている。だが、よく見ると、垂直尾翼の大半がないことが分かる〉(8 飛行写真)

 〈写真を見た後、松尾は「後部圧力隔壁が破断して機内の与圧された圧縮空気が機体後部の非与圧空間に一気に噴き出し、その上部の垂直尾翼を内側から吹き飛ばすと同時に垂直尾翼内の4系統すべてのハイドロ・システムも壊したのだろう」と推理した〉(同)

〈この時点で、隔壁破断から垂直尾翼の吹き飛ばし、油圧配管のハイドロ・システムの破壊、操縦不能という最悪のシナリオに気付いたのは、松尾のほかにはいなかっただろう〉(同)

■なぜ警察と検察は刑事立件にこだわったのか

 ところで前回、7月号のメッセージ@penの後半で次のように書いた。

 〈ファイルを読み込むと、警察や検察が松尾氏の刑事責任を厳しく追及する様子がよく伝わってくる。それにしてもどうして群馬県警は刑事立件にこだわり、やっきになったのか。群馬県警が取り調べを始める前にボーイング社は「事故の原因は自社の修理ミスにある」と認めていた。ところが、群馬県警と検察(前橋地検、東京地検)は「日航が修理中及び修理終了直後の領収検査で修理ミスを見逃した」「その後の定期検査でも修理ミスによって発生する亀裂(クラック)を見落とした」と判断し、理不尽で非情な取り調べを続けた。なぜだろうか〉

 捜査のたたき台にされたのが、運輸省航空事故調査委員会の事故調査報告書(1987年6月19日公表)だった。しかし、その報告書の一部に誤りがあった。その誤りに対し、松尾氏は「修理ミスや亀裂は領収検査や点検・整備で発見できない」と訂正を求めたが、事故調はことごとく無視した。

 たとえば、事故調査報告書は「後部圧力隔壁のC整備時の点検方法は、隔壁が正規に製作されている場合、また、その修理が適正に行われた場合には当該C整備の時点では疲労亀裂がこの部位に多数発生するとは考えられないので、妥当な点検方法であると考えられる」と記述した後、「しかしながら、今回の場合のように不適切な修理作業の結果ではあるが、後部圧力隔壁の損壊に至るような疲労亀裂が発見されなかったことは、点検方法に十分とはいえない点があったためと考えられる」(本文125ページ)と記している。

 つまり、「日航の点検・整備が不十分だから墜落事故が起きた」と指摘しているのだ。警察や検察が松尾氏や日航に刑事責任があると判断し、厳しく追及した根拠がこの辺にある。つまり、事故調が警察と検察の捜査をミスリードしたことになる。前回7月号では「松尾ファイル」自体がスクープだと書いたが、なかでも圧巻がこのミスリードである。

■事故調は近寄りがたい存在だった

 拙著ではこの事故調の記述を〈C整備を「妥当だ」と評価しておきながら、その直後に「修理ミスがあった場合には不十分な点検だ」と批判するのは無理な論理展開である。日航の点検・整備に問題があったと受け取れる記述の仕方だ。そもそも、初めから隔壁に修理ミスやそれによって発生した複数のクラック(亀裂)があると分かっていれば、特別の点検も実施できただろうが、修理ミスの存在は墜落事故が起きるまでだれにも分からなかった〉(22 事故調の権威)と批判している。

 C整備とは、機体を航空会社のハンガー(整備工場)に入れて行われる3000飛行時間ごとの重整備を指す。

 続けて拙著のくだりを引用しながら話を進めよう。

 〈彼らを個別に取材すると、みな紳士的で優しい方ばかりなのだが、彼らが事故調として1つにまとまると、どこか近寄りがたく感じた〉(同)

 〈当時、事故調は海上保安庁といっしょに運輸省が入る建物(東京・霞が関の中央合同庁舎第3号館)の最上階の11階に入っていた〉(同)

 〈薄暗いエレベーターホールの向こうの部屋のドアを開けると、そこが事故調の事務局だった。記者クラブ詰めの記者の取材でもなかなかその部屋の奥には入れてもらえなかった記憶がある〉(同)

「予備知識が皆無の人達だ」

 松尾氏も私とのメールのやり取りの中で当時の事故調を批判している。

 〈「事故調はNTSBに準拠して作られた組織です。その構成メンバーは、航空機構造や流体力学を専門に扱う大学教授、研究所の職員、航空輸送を含む輸送業界の専門家、その他で構成されていました」〉(同)

 NTSBとはアメリカの国家交通安全委員会のことで、航空、鉄道、自動車、海運、パイプラインなどの事故調査と事故原因の究明を行う、大統領直轄の独立した組織である。

 〈「当時の事故調はジャンボ機のB-747型機に関しては、ごく部分的なことを除けば予備知識が皆無の人達でした。日航ジャンボ機墜落事故の後に断片的な事実を調べ上げて繋ぎ合わせ、取りまとめたのが調査報告書です」〉(同)

 〈松尾は「事故調のメンバーは航空機構造や流体力学などの専門領域に安住せず、飛行機全般の知識を身につけることが肝要です」と訴え、最後に「ちょっと言い過ぎましたが、ご容赦ください」としたためていた〉(同)

 〈言い過ぎとは思えないし、航空エンジニアとして率直な思いを語ってもらえたことがとてもありがたかった〉(同)

 松尾氏のように現場を熟知した航空専門家の目には、事故調が素人の集まりに見えてくるのである。(続く)

―以上―

◎慶大旧新聞研究所OB会によるWebマガジン「メッセージ@pen」の2024年8月号(下記URL)から転載しました。

『日航・松尾ファイル』の出版(中) 事故調が捜査をミスリードした | Message@pen (message-at-pen.com)