2024-12-4(令和6年)木村良一(ジャーナリスト・作家、元産経新聞論説委員)
■始まりは背中と胸の激痛だった
私事(わたくしごと)で恐縮だが、68歳のわが身に心疾患の疑いが出て検査入院した。先に結論から言うと、重大な病ではなかったのだが、止まれば命を失う心臓だ。それだけに死についていろいろと考えさせられる日々が続き、自分の弱さを思い知らされた。
始まりは8月7日の暑い朝だった。背中と胸に激痛が走ってベッドから起き上がることができなくなった。治まらない痛みに堪えながら近所の診療所を訪れると、「心筋梗塞や狭心症の痛みかもしれない」と考えたのだろう、かかりつけ医の先生はすぐに心電図をとり、大学病院に紹介状を書いてくれた。
大学病院でCT(コンピューター断層撮影)やMRI(磁気共鳴画像)をとったところ、頸椎(けいつい)の椎間板(ついかんばん)のヘルニアが原因らしいと分かった。首の骨と骨の間にある柔らかい椎間板が飛び出して脊髄の神経を圧迫して背中や胸が痛む。年齢にともなう頚椎症である。以前、腰の椎間板ヘルニアを患ったことはあったが、首は初めてだった。長い時間パソコンに向かう生活を続けてきたせいで姿勢が悪くなり、首に負担がかかったようだ。
■動脈硬化と心筋虚血が見つかる
大学病院の整形外科で痛み止めの薬を処方され、背中と胸の痛みは次第に治まっていった。しかし、問題はその後だった。CT画像を見て心臓の冠動脈に石灰化による動脈硬化があることを診療所のかかりつけ医が見つけたのである。冠動脈とは心臓の筋肉に酸素や栄養を送る重要な血管である。しかも動脈硬化が見つかったのは、冠動脈の中でもっとも重要な左前下行枝(ひだりぜんかこうし)と呼ばれる血管だった。
それを聞いたとき、愕然とした。大ショックだった。小学校のときから冬のマラソン大会で何度も優勝し、60歳を超えても北アルプスなど高山を難なく登ってきた。それだけに心臓にはかなり自信があった。それが冠動脈の動脈硬化とは何とも情けない。
大学病院の循環器内科に通って心臓のエコーや末梢循環機能の検査を続け、放射性同位元素を静脈に注射して心臓の血流を映像化して調べる核医学検査も受けた。その核医学検査で問題がまたもや発覚した。薬剤を投与して心臓に負荷を加えると、左心室の筋肉の血流が悪くなる。この左心室の筋肉には動脈硬化が見つかった左前下行枝が血液を送っている。無症候性の心筋虚血が疑われた。今後の治療方針を決めるためにさらに詳しい検査の必要があった。
■心臓カテーテル検査を決意する
詳しい検査というのが、心臓カテーテル検査だった。右手首の動脈から心臓まで細管のカテーテルを挿入して調べると聞いてどうしようかと何日も迷った。後遺症はないのか。挿入中に動脈を傷付けないのか。術中に血栓(血の塊)ができれば、心筋梗塞を引き起こす危険性が高い。石灰化で冠動脈が詰まりかけていた場合は、そのまま風船のバルーンや筒状の金属ステントを入れて血管を内側から押し広げる。身体にとって異物のバルーンやステントを入れることで侵襲性はないのか。痩(や)せても枯れても医学ジャーナリストの端くれである。心臓病に関する医学資料をかき集めては何度も読み返し、親しい医師にも話を聞いて勉強を重ねた。
検査を受ける決心をしたのは、11月に入ってからだった。動脈硬化や心筋虚血の程度を確認するには、心臓カテーテル検査しかないと思ったからである。それにこれからの人生で身体のどこにどう気を付けて行けば良いのかが分かって安心できる。心臓カテーテル検査は入院する必要があった。2泊3日で大学病院に入院する手続きを取り、11月13日午後、心臓カテーテル検査を受けた。
■「血管を破らないように」
検査室は寒かった。ハイテク技術を駆使したレントゲン設備など様々な医療器具を設置しているために室温を低く抑える必要があるからだ。担当医が目の前の大きなモニターに映し出された画像やデーターを見ながら右手首の動脈から細いガイドワイヤを心臓の近くまで入れ、そのワイヤに沿ってカテーテルを挿入していく。身体はベッドに仰向けにされ、動くことは許されない。「血管を破らないように進めてほしい」と願うほかなかった。右手首に麻酔を打ってあるので痛みはさほどない。それでも血液が固まらないようにする抗凝固剤のヘパリンを投与されると、右手首が燃えるように熱くなる。レントゲン撮影するための造影剤のヨウ素剤も熱く感じる。検査時間は50分ぐらいだったろうか。心臓からカテーテルが抜き取られると、ホッとした。幸いなことにバルーンもステントも入れずに済んだ。
心臓カテーテル検査の結果、分かったことは2つ。冠動脈の左前下行枝の血管内に血液が流れているので、問題の動脈硬化は血管壁の外側に存在するとみられる。もう1つの心筋虚血については、心臓が収縮(スクイズ)したときに心筋内の血管が細くなり、逆に拡張したときにもとに戻る。核医学検査で出た心筋虚血の疑いはこの収縮期のものとみられ、問題はなかった。簡単に言えば、心筋虚血はなく、動脈硬化もいますぐ身体に障害を及ぼすものではないということだった。
■最後まで医師として生きる
それにしても今回は死について深く考えさせられた。なかでもがんの告知を受けながらも最後まで前向きに生きた友人や知人のことを思うと、動脈硬化や心筋虚血に脅えた自分が情けなくなった。
次女の夫の父親はすい臓がんで亡くなった。外科医だったが、すい臓がんと分かっても抗がん剤の投与や手術などの治療はしなかった。すい臓のがんは末期で見つかった。医学的知識のある医師である。治療によって自分の身体が蝕まれるのを避けたかったのだと思う。治療で苦しむよりは余命を楽しんで生きようと考えたのだろう。
亡くなる直前までワインを一緒に飲み、メールのやり取りもした。お気に入りのジャズが入ったCDも送ってくれた。人間である以上、死に対する恐怖心はあったはずだ。だが、愚痴など一切こぼさず、「医者の不養生」と平気な顔をして笑っていた。そして身の回りを整理するなど淡々と毎日を送っていた。
亡くなったのは、3年前の2021年11月19日だった。61歳だった。亡くなる前の晩も仕事に行く準備をしてから床に就き、具合の悪くなった朝も家族に「仕事にいかなければ」と話していた。最後まで医師として生きた人生だった。残念でならないのは、もっと話を聞きたかったのにそれがかなわぬことになってしまったことである。
■編集者から彼自身の訃報が届く
14年前のことだった。大手出版社で雑誌の編集長として活躍した知人は白血病を患い、60歳で亡くなった。最初、その知人から突然、「私は2年前に判明した白血病にともなう合併症により、死去致しました」という訃報の手紙が届き、驚いたことを覚えている。彼は生前に手紙をしたため、死んだ後に奥さんに出してもらっていたのである。
手紙にはこんなことが綴られていた。
「血液がんは多くの臓器がんの方々とは違い、摘出手術こそできないけれど、その分、体力の大きな減退がなかったのが幸いでした」
「入退院3回とはいえ余命を告げられてからも、おかげさまで日々淡々とほぼ普段通りの生活を過ごし、これ以上の幸運はありませんでした」
一般的にがんによる死は、脳出血や心筋梗塞のように突然ではなく、痛みさえともなわなければ、時間があり、自分で身の回りを整理して最期を迎えることができる。
知人は告知後の1週間は酒浸りになりながら苦しみもだえたが、それでも立ち直り、体力が続く限り、世話になった方々と会っては「不治の病に侵されている」と告げ、彼の理想とする出版の在り方を伝えた。立派だと思う。この私など「余命わずか」と宣告された後、果たしてどこまで冷静でいられるだろうか。今回の心臓病の疑いで脅えたように、いやそれ以上に、気が動転してうろたえ、パニックに陥って何もできずに逝くに違いない。
―以上―
◎慶大旧新聞研究所OB会によるWebマガジン「メッセージ@pen」の2024年12月号(下記URL)から転載しました。
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