2025-11-5(令和7年)木村良一(ジャーナリスト・作家、元産経新聞論説委員)

早朝、北アルプス・燕岳(つばくろだけ)の頂上を目指す。青い空と白い花崗岩とのコントラストに圧倒される=2012年9月13日、撮影・木村良一

2011年2月8日付産経新聞の朝刊に掲載されたインタビュー記事の上(木村良一のスクラップ帳から)
■14年前のインタビュー
気さくで笑い声が絶えない人だった。女性として世界で初めて世界最高峰のエベレスト(チョモランマ、8848メートル)の登頂に成功した、登山家の田部井淳子さん(1939年9月22日~2016年10月20、享年77歳)のことである。山から人生を学び、頂上に立ちたいという夢を追い続け、7大陸最高峰も女性として世界で初めて制覇し、後年は世界各国の最高峰を登りながら山ガールブームまで巻き起こした元祖山ガールの田部井さん。あのエベレスト登頂から今年でちょうど50年になる。田部井さんをモデルにした吉永小百合さん(80)主演の映画も10月31日から全国公開されている。
いまから14年ほど前のことである。田部井さんを取材し、産経新聞の朝刊にインタビュー記事(上・中・下)を3日続けて掲載したことがあった。当時の取材テープの録音を聞くと、あの懐かしい福島弁の声が聞こえてくる。田部井さんの事務所(東京都千代田区三番町)を訪れたのは、2011年1月14日と27日だった。当時、私は登山を始めたころで、奥多摩や丹沢の低山を毎週のように登っては足腰を鍛えていた。井上靖の『氷壁』や新田次郎の『孤高の人』などの登山小説にも夢中になっていた。そんな時期だったから日本の登山家を代表する田部井淳子さんに会って取材できるという嬉しさと緊張感で、取材日程を2日も入れたのだと思う。田部井さんの方は講演をこなしながら世界各国でその国の最高峰を登り続けるなど、忙しい毎日を過ごしていた。長い取材は迷惑だったに違いないが、田部井さんは笑顔で受け入れてくれた。
■女性だけの登山隊
田部井さんは1975(昭和50)年5月16日午後0時半(現地時間)、標高8848メートルのエベレストの頂上に立った。35歳のときだった。登山隊は計15人、全員が女性だった。登り方は、いま流行りの少人数で一気に登るアルパインスタイルとは違い、ベースキャンプの先に複数のキャンプを設営し、隊員以外にも案内役のシェルパや荷物運びのポーターが支援する極地法だった。装備の関係から頂上に立てる隊員は1人か2人だった。それでも山岳関係者からは何度も「女性だけのパーティでは不可能だ」と忠告された。しかし、田部井さんたちは諦めなかった。その理由についてこう答えている。
「現状に反抗するとか、ウーマンリブとか、そういった考えはまったくありませんでした。有名になりたいという思いもなかった。好きな山々を登るなかで、いつかは地球で一番高い魅力のエベレストに登りたいと思っていた。ただただ純粋な気持ちから登りたいと願っていました」
「どうすればエベレストの登頂を実現できるかを常に考えていました。まず、1969(昭和44)年に女子登攀クラブを作った。女性だけで海外の山に登るのがこのクラブ設立の趣旨でした。いきなり8000メートル級は無理なので7000メートル級から始めた。それが1970年5月19日のアンナプルナⅢ峰の登頂でした」
ネパールのヒマラヤ山脈の中央部にある高峰群の総称がアンナプルナで、Ⅲ峰は7555メートルだ。「いきなり8000メートル級は無理」とは言え、四捨五入すれば8000メートルの高さである。3000メートルの北アルプスの山々に恐れを抱く私とは全く違う。女子登攀クラブの実力は相当高かった。
■雪崩で九死に一生
女性だけの登山隊のアンナプルナⅢ峰の登頂成功は世界初で、エベレスト登頂への大きなステップとなった。この意味について田部井さんは「実際に女性ばかりで登ってみると、不可能でない。不可能が可能になっていく過程、経験したことのないプロジェクトを仲間と動かしていくことがとても楽しかった。物事は一歩出てみないと分からない」と語っていた。
エベレストの頂上の手前。152センチ、51キロの小柄な田部井さんを大きな雪崩が襲う。
「第2キャンプで寝ていると、夜中にテントが雪崩に飲み込まれました。雪崩が止まると、氷と氷の中で押しつぶされ身動きがまったくできなかった。3歳になったばかりの娘の姿が目にくっきりと浮かんできた。いま、私が死んだらこの子はどうなる。死んではダメダメ。最後まで頑張らなくては…と思いました。そのうち意識を失いました」
田部井さんは間一髪のところをシェルパたちに救出され、窒息死を免れる。まさに九死に一生を得た。救出後、ベースキャンプにいる隊長に下山するよう勧められたが、「こんな大きな雪崩だったのに誰も死ななかった。だから下りることはない。登頂を再開できる」と考え、隊長に「体は大丈夫です」と返答して頂上を目指した。
7、8千メートルという高度は人を寄せ付けない。マイナス20度、空気は地上の3分の1と薄い。じっとしていても体力は消耗していく。田部井さんはエベレストの頂上を目指して一歩進もうとするが、その一歩が前に出ない。苦しい。心臓が破裂しそうになる。それでも山で滑落して亡くなった親友の顔を思い浮かべながら登り続け、頂上に日の丸の旗を掲げた。
■「頂上だけが山ではない」
私の取材から5年9カ月後の2016年10月20日、田部井さんは腹膜がんで亡くなった。取材したとき、元気はつらつとしていたが、乳がんの手術から3年目でまだ薬を服用していた。その乳がんが腹膜に転移したかどうかは分からないが、田部井さんによると、乳がんの方は山小屋で体を拭いているときに胸骨の下方あたりに見つかった。68歳の誕生日だった。乳腺から外れていたが、念のため大学病院で切除すると、腫瘍の大きさは1.5センチ、病理検査の結果は悪性だった。
余命わずかのなか、がんと闘いながら富士山を登る田部井さんの姿をテレビで見たのを覚えている。夫に支えながら確か8合目まで自力で登っていた。エベレストの頂きを目指したときのように一歩一歩、前に進んでいた。
インタビューで若いころといまでは山に対する考え方の違いを聞くと、「若いときは登った記録を意識していましたが、50歳を過ぎてからはその山麓に住む人々の生活や文化に関心が出てきました。頂上まで登ることで満足感はあるけど、頂上だけが山ではない」と語り、「私が楽天的でおおらかになれたのも山のおかげです。雄大な自然を前にすると、何でも許せる気持ちになれる。人との争いごともとても小さなことだと思えてくる。山は暮らしに元気を与えてくれます」と山の魅力を強調していた。
田部井さんをモデルにした吉永さん主演の映画のタイトルは「てっぺんの向こうにあなたがいる」だ。がんと闘いながら山を愛し続けた1人の女性の姿だけでなく、母親の喜びや葛藤までも描いているという。
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◎慶大旧新聞研究所OB会によるWebマガジン「メッセージ@pen」の2025年11月号(下記URL)から転載しました。