フランス航空教育団来日100 周年記念事業、2019年に日仏で開催


2018-12-11(平成30年) 松尾芳郎

 百周年バッジ

図1:(Designed by Patrick ARCOUET)「フランス航空教育団来日100周年」を記念して作られたバッジ。初めて富士山を上空から観察した同教育団の「ブレゲ―14B2 軽爆撃機」を描いたもの、アルクウエ氏が作成した。図の下に書かれている“Mission Faure”とは「フォール航空教育団」の意。

日本の航空界はフランスの指導で本格的に発足したと言っても良い。当時の日本政府の要請を受け、フランス政府はフォール陸軍中佐を団長とする「フランス航空教育団」を編成、最新の航空機やエンジンを携行して派遣した。第一次派遣団の50名が来日したのは1919年(大正8年)1月。その後第二次グループが加わり、最大時には63名が日本陸軍および関連民間会社で航空技術の指導に当たった。派遣員の旅費、滞在中の給与はフランス政府が負担した。来年2019年は来日100年目になる。

「航空教育団」は当初の予定では約半年の滞在だったが、延長され1年以上にわたり各地で、飛行機の操縦から始まり、戦闘方法から発動機・機体の製造方法まで多岐にわたる指導が行われた。

「フランス航空教育団来日100周年」を迎えるに際し、関係者から記念事業の話が持ち上がり「実行委員会」が設立された。日本側は、東京大学大学院航空宇宙工学科教授「鈴木真二」氏が委員長、事務局長には発起人として参加した「臼井実」氏、で実行委員会が組織され、運営にあたっている、

「実行委員会」の一人クリスチャン・ポラック氏の著書「筆と刀(Sabre et Pinceau)」によると、日本とフランスの軍事的な関係は、これよりずっと以前の明治政府設立の初期から始まっている。そこには概略次のように述べてある;—

1867年(慶応3年)から翌1868年(慶応4年/明治元年)に掛けて徳川幕府の軍隊はフランス軍事顧問団から教育を受けていた。明治新政府が発足すると政府直属の軍隊を編成するため、フランスに第二次軍事顧問団の派遣を要請した。

1872年5月18日に第二次軍事顧問団16名が横浜に到着した。陸軍卿山県有朋中将と協議、顧問団による陸軍士官学校の創設、発足したばかりの近衛師団の改編、砲兵工廠の建設、などが決まった。そして徴兵制度もフランス方式に倣い翌年に施行され、近代的な陸軍の基盤が整備された。第二次軍事顧問団は、9年間も日本に滞在し教育活動を行い1880年(明治13年)5月に帰国した。帰国に際し当時の陸軍卿大山巌中将から、フランス陸軍大臣宛に感謝の書状が手渡された。

1884年(明治17年)になると大山巌陸軍卿が渡仏しフランス陸軍大臣カンプノン将軍と会談、第三次軍事顧問団4名の派遣が了承された。顧問団は5年間滞在し、士官学校の教育指導、軍楽隊の編成指導、武器製造の指導に当たった。

これとは別に1865年(慶応元年)から1876年(明治9年)に掛けてフランス人技師たちが来日、横須賀に海軍造船所、横浜に製鉄所、観音崎等に灯台を建設した。日本帝国海軍は、この10年後、1885年(明治18年)に最新式軍艦の建造と新しい造船所の建設のためフランスに援助を求めた。当時の海軍卿川村純義中将からフランス海軍大臣宛、フランス人技師ルイ・エミール・ベルタンを3年間日本に派遣、船舶建造の指導をするよう求め、了承された。来日したベルタンは、横須賀造船所の近代化、精錬所の近代化、海軍工廠の管理規則の制定、新しい海軍造船所の候補地として呉、佐世保を選定し、助言した。軍艦建造では、高速軽量な4500トン級の海防艦を設計、複数隻建造した。これらが1894年(明治27年)の日清戦争の黄海海戦で活躍、清国海軍を撃破、我国に大勝利をもたらした。勝利の翌日、旗艦「松島」の連合艦隊司令長官伊藤祐亭中将は、すでに帰国していたベルタンに手紙を送り「たくみに設計された軍艦のお陰で輝かしい勝利を収めることができた」と謝意を述べている。

このように1867年(慶応3年)から1889年(明治22年)まで間、日本はフランスから陸海軍双方で多くの指導を受けた歴史があり、これが主題の1919年(大正8年)の「フランス航空教育団」、フランス側の呼称では「フランス遣日航空教育軍事使節団」の派遣に繋がったことは間違いない。

「フランス遣日航空教育軍事使節団」第一陣50名は第一次大戦休戦協定成立の僅か13日後の1918年11月24日にマルセーユを出航、中国上海まで行き、そこで日本側提供の山城丸に乗船、長崎、門司に寄港、神戸で汽車に乗換え、1919年(大正8年)1月23日東京に到着した。途中岐阜を含む各地で盛大、熱烈な歓迎を受けた。

1928 フォール大佐像

図2:(当時の絵葉書)1928 年(昭和3 年)の建立当時のフォール大佐の胸像。現在の県営所沢航空記念公園 。

1. フランス航空教育団とは

第一次世界大戦当時の日本の航空の水準は先進国に比べ大きく遅れていた。その状況に危惧を抱いた陸軍は、航空先進国フランスに対して最新の航空機材の購入と人員派遣の要請を行った。

第一次世界大戦中の困難な時期にもかかわらず、フランス首相クレモンソーは日本の要請に応じ、フォール中佐(日本滞在中に大佐に昇進)を団長に任命、航空機機材の売却をすると共に指導教官を日本に派遣した。

彼らは、日本各地で航空に関連する様々な教育を行い、黎明期の日本の航空に大きな影響を与え、その後に続く日本の航空の基礎を築いて帰国した。

砲兵工廠

図3:(Christian POLAK Collection)東京砲兵工廠の庭で教育団と日本側関係者、前列左から9人目がフォール大佐。砲兵工廠は、1872年に小石川の水戸藩邸の跡地にフランスの第二次軍事顧問団の手により建てられたもの。

 

2. 教育拠点と教育内容

教育団は陸軍の「臨時航空術練習委員会」(委員長井上幾太郎少将)と協議、教育科目を次のように8班に分類、フランス人士官1名が主任として指導に当たらせ、日本人士官1名が班長として教習生を統率することなった。そしてそれぞれの練習地を決めて訓練を開始した。このうち各務ヶ原飛行学校では海軍からの5名を含む33名のパイロット要員が操縦訓練を受けた。

  1. 操縦(空中戦闘)班     :岐阜県各務ヶ原飛行学校
  2. 射撃班           :静岡県浜名湖畔新居町軍事学校
  3. 爆撃班           :静岡県三包ヶ原軍事学校
  4. 偵察班           :千葉県下志津ヶ原飛行場、四街道軍事学校
  5. 機体製作班         :埼玉県所沢飛行場
  6. 気球班           :埼玉県所沢飛行場
  7. 検査班           :東京小石川東京砲兵工廠
  8. 発動機製作班        :名古屋市熱田兵器製造所

シミュレーター

図4:(Christian POLAK Collection) 教官から操縦模型を使って操縦法を教わる練習生。各務ヶ原で訓練を受けた練習生の一人が漫画家として著名な松本零士さんのお父上で、大東亜戦争当時も終戦当日までマレー半島上空で戦っておられた。

83E2と日本人パイロット

図5:(Christian POLAK Collection) ニューポール83E2(甲式二型練習機)の前で訓練中の練習生。

24C1各務ヶ原

図6:(Philippe Coste Collection)各務原飛行場のニューポール24C1(甲式三型戦闘機) 。この機体は戦闘機、練習機併せて300 機以上使用された。

83E2各務ヶ原

図7:(Christian POLAK Collection)各務ヶ原飛行学校で使われたニューポール83E2(甲式二型)練習機。タンデム複座でエンジンは80馬力、最大速度140 km/hr。

各務ヶ原日仏パイロット

図8:(Christian POLAK Collection) 各務ヶ原飛行場での日仏両軍のパイロット。

モールスファルマン水上機

図9:(当時の絵葉書)現在の静岡県湖西市新居町の軍事学校では水上機を使い射撃班の訓練が行われた。射撃だけでなく水上機操縦の訓練も行われた。使用機体は写真のモーリス・ファルマン水上機(ベンツ100馬力エンジン付き)。

新居町記念碑

図10:(川端良二氏撮影)新居町、大正浜の新居町ライオンズクラブが1977 年(昭和52 年)建立した記念碑「航空揺籃の地」。ここには、2 名のフランンス人教官に対し、 「両氏は数ヶ月間当町に居住し町民と親交を 結んだ、よってここにフランス国民との友好 親善とわが国航空技術発祥の地を記念して之 を建つ」と書かれている。

3. 航空機およびエンジン製造の開始

航空教育団は、所沢で機体製造、熱田でエンジン製造の教育を行い、これで我国の航空機生産技術は短期間のうちに飛躍的に向上した。すなわち機体、エンジンのライセンス生産が各社で行われ急速な進歩を遂げたのである。代表的な民間会社を示すと;—

  1. 川崎造船所:1918年にサルムソン2A2 偵察機2機を購入、その後ライセンス生産を開始、300機以上を製作した。
  2. 三菱内燃機:名古屋製作所で1919年にイスパノスイザ・エンジンのライセンス生産を開始、860台以上を製造した。また1922年からニューポール81E2を57機ライセンス生産、1924年までにル・ローヌ・エンジン搭載のアンリオHD-14E2を140機生産した。
  3. 中島飛行機製作所:1923年からニューポール83E2を40機ライセンス生産、また同時期ニューポール29C1を608機生産した。
  4. 東京瓦斯電気工業:1920年からル・ローヌ・エンジン80馬力と120馬力をライセンス生産した。

以下に国産化したものと輸入した機体の一部を示す。

Salmuson_Japanese_spy_plane

図11:(Christian POLAK)川崎造船所製のサルムソン2A2型(乙式一型)偵察機。陸軍は1919年から29機を輸入、1922年(大正12)年から陸軍補給所所沢支部ライセンス生産し5年間で300機が製造された。その後川崎造船所でライセンス生産され、我国での生産機数は600機に達し全国各地の飛行連隊に配備された。エンジンはサルムソン9Za型水冷星型230馬力。

各務ヶ原サルムソン2A2レプリカ

図12:(各務ヶ原航空博物館)同型機のレプリカは岐阜県各務ヶ原航空宇宙博物館に展示してある。1929年当時福岡県太刀洗陸軍第二飛行連隊に所属していた陸軍航空兵中尉「松尾靜磨」(筆者の父)は、生前本機で訓練を受けたことを誇りにしていた。

ニューポール24甲式三型

図13:(Wikipedia) ニューポール(Le Nieuport)24C戦闘機は、1919年から陸軍補給部所沢支部で48機、東京砲兵工廠で145機、1921年からは中島飛行機で102機が甲式三型としてライセンス生産された。

所沢24C1生産風景

図14:(第一印刷KK)埼玉県所沢支部で教習生たちはサルムソン2A2型と訓練用ニューポール24C1(甲式三型)戦闘機(写真)を作りながら量産方式と工程を学んだ。

ニューポール29C1

図15:(Wikipedia)ニューポール29C1(甲式四型)戦闘機は、1922年フランス軍が250機を購入、我国では中島飛行機がライセンス生産、甲式四型戦闘機として600機以上を製作、陸軍に納入した。エンジンはイスパノ・スイザ水冷V8気筒300馬力を装備した。

アンリオ初等練習機

図16:(Wikipedia) アンリオ(Le Hanriot) HD14E2初等練習機。エンジンは空冷9気筒、ル・ローヌ。1923年から20機ほどが輸入され、それからライセンス生産に移り、東京砲兵工廠で19機、ついで三菱で140機製造され昭和10年代まで使われた。

各務ヶ原エンジン製作

図17:(Christian POLAK Collection) 各務ヶ原飛行場に設けられたエンジン製作所。ル・ローヌ空冷星形回転式9気筒星型エンジンの組立て風景。

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図18:(Wikipedia) ル・ローヌ社(Societe des Moteurs Le Rhpne)が作ったエンジンは、第一次大戦中の軍用機に多く使われた。エンジンは9本のシリンダーが回転し、クランク軸は固定され、シリンダーにつながるプロペラを回す仕組み。80馬力型と120馬力型があった。東京瓦斯電気工業では1910年からライセンス生産をした。

富士山観察のブレゲー

図19:(第一印刷KK)冒頭の図1にある富士山を上空から観察したブレゲー14B2軽爆撃機。フランス陸軍の塗装。リバテイー400馬力エンジンを搭載。使節団は2機を日本に携行した。

スパット13C1

図20:(第一印刷KK)埼玉県所沢飛行場でのスパッド(Sociiete Pour L’Aviation eet ses Derives) S13C1 (丙式一型)戦闘機。イスパノ・スイザ水冷V8気筒220馬力エンジンを搭載。100機ほどが輸入された。

東大アンリオ練習機

図21:(第一印刷KK)東大航空研究所は、1926年(大正15年)に陸軍が輸入したアンリオHD32E2練習機を所沢で組立て、譲り受けて研究に使った。翼と胴体に描かれている[ J-KOKU ]は民間機の登録記号で、現在の方式[JA ……]に相当する。東大付属の航空研究所は1918年(大正7年)に設立され、1920年には工学部に航空学科が設置された。こうした基礎研究と人材育成がフランスを含む欧米からの技術導入と相俟って日本の航空機工業を発展に導いた。

団員達は日本人と日本文化に接した

「航空教育航空団」の団員達は、滞在中各地で日本人と日本文化に接し交流を深めた。

岐阜の鵜飼い

図22:(Coste Family Collection)岐阜県長良川で鵜飼いを楽しむ団員達。左から4人目の顔に包帯をしている教官は訓練中に負傷した人。

浴衣姿

図23:(Christian POLAK Collection)千葉の料亭でくつろぐ四街道班(偵察班)の団員。

 

所沢にはフォール大佐らが頻繁に通った西洋料理店「美好軒」がある。ここで提供されたカツレツはフランスの家庭料理そのままで、教育団一行に好まれた。カツレツは予め箸でも食べやすいようにカットされていた。今でも所沢市の割烹「美好」で同じものを「フォール・カツレツ」として提供している。

美好軒

図24:(三上博史氏所蔵)所沢市「美好軒」で食事をする教育団の団員達、中央の髭の男性が美好軒の主人。

カツレツ

図25:(所沢市役所)現在の所沢市にある割烹「美好」がメニューに出している「フォール・カツレツ」。

 

5.航空教育団員のその後

一年以上にわたる教育団の残した成果は、黎明期にあった日本の航空界に大きな影響を与えた。この功績に報いるため日本政府は団長のフォール大佐に「勲三等旭日章」を叙勲、他の団員に対しても叙勲し謝意を表した。

団長ジャック・フォール(Jacques Faure)大佐は、帰国後陸軍少将に昇進、砲兵旅団長を務めたが、在職中に他界(1869–1924)し、故郷のクレモンフェランに埋葬された。生涯を独身で過ごした。

フォール大佐

図26:Christian Polak collection) 晩年のジャック・フォール大佐。ジャック・フォール大佐陸軍砲兵連隊長、第一次大戦中は航空補佐官房を歴任した。

 

アンリ―・二コラス・アルクウエ氏は、通訳として勤務し勲六等瑞宝章を叙勲され暫く日本に残り、日本人女性アベチヨコ氏と結婚した。子孫は現在パリに在住、今回の記念式典(4月7日(日)所沢航空公園)には来日される予定。

Arcouet氏

図27:フランス側事務局長Patrick ARCOUET氏の祖父Heri-Nicolas ARCOUET氏へ内閣賞勲局から勲六等瑞宝章が贈られた。

後援、協賛企業、団体等

「フランス航空教育団来日100周年記念」に関わる事業には、多くの後援、協賛企業、団体等からの支援を得ている。すなわち記念事業開催/展示会開催等の支援、資金面での援助、情報提供、その他で協賛、援助を頂いている公的機関、企業、団体等は列挙すると次にようになる(順不同);—

航空自衛隊、駐日フランス大使館、岐阜県、埼玉県所沢市、日仏工業技術会、日本航空、全日本空輸、三菱重工、川崎重工、SUBARU、ジャムコ、住友精密工業、成田国際空港KK、日本UAS産業振興協議会、KKセリク、折り紙ヒコーキ協会、エアバス・ジャパンKK、三井物産、ダッソー・システムズKK、タレス・ジャパンKK、KK山之内製作所、サフラン、丸文KK、名古屋空港ビルデイングKK、その他。

この他に個人有志からも多数協賛をいただいている。

尚、パネル展を入間基地航空祭、岐阜基地航空祭、浜松基地エアーフェスタで開催し、現在、浜松基地広報館(エアーパーク)で12月24日迄開催中である。機会が有ればご覧頂きたい。

 

—以上—

本稿の作成は「フランス航空教育団来日100周年記念実行委員会」発表の諸資料、および、多くを「実行委員会」クリスチャン・ポラック氏の著書「筆と刀(Sabre et Pinceau)」に拠った。