御巣鷹40年 陰謀論・撃墜説の正体を暴く


2025-7-2(令和7年)木村良一(ジャーナリスト・作家、元産経新聞論説委員

■小説『沈まぬ太陽』

 1985(昭和60)年8月12日、日本航空のジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落して520人が亡くなった。あの墜落事故から40年という歳月が過ぎようとするなか、いまだに解決されない課題がある。運輸省航空事故調査委員会(事故調)の過ち、陰謀論・撃墜説の流布、修理ミスの理由を明らかにしないボーイング社の体質―の3つである。前回は「なぜ事故調は過ちを犯したのか」というタイトルで事故調の過ちを述べたので、今回は陰謀論・撃墜説について話そう。

 ところで、山﨑豊子の作品に『沈まぬ太陽』という小説がある。週刊新潮に連載(1995年1月~1999年4月)され、航空会社の暗部が大胆に描かれた。書籍の販売が700万部を超したというから大ベストセラーだ。映画化もされ、主人公の恩地元を渡辺謙が演じた。

 恩地はナショナル・フラッグ・キャリア、国民航空の労働組合委員長を務め、経営陣と戦う。しかし、見せしめにパキスタン、イラン、ケニアと次々と転勤を命じられ、10年後に本社に復帰する。そこにジャンボ機墜落事故が起きる。事故後、新会長のもとで新しい体制がスタートすると、恩地は会長室の幹部に抜擢され、社内改革に取り組む。

■主人公、恩地元のモデル

 国民航空のモデルが日本航空であることはすぐに分かるが、主人公の恩地にもモデルが実在する。日航労組の委員長を務めた小倉寛太郎(おぐら・ひろたろう、通称・かんたろう)氏=1930年10月~2002年10月、享年72歳=である。

 ネット上に残された経歴によると、小倉氏は神奈川県の逗子で育ち、旧制の県立湘南中学校(現・湘南高校)に学び、苦学を重ね、終戦後に東京大学に進学する。東大では第1回駒場祭の委員長や学友会の初代議長、生協の初代理事、教養学部学生新聞の初代編集長を務めた。卒業後、AIU(現・AIG損害保険)に入社し、労組を結成して書記長に就くが、AIUを解雇され、1957年に日航に中途入社する。日航では1961年から1963年まで労組委員長を務めた。

 1964年にパキスタンのカラチ支店に配属された後も、イランのテヘラン、ケニア共和国のナイロビと単身赴任し、日航ジャンボ機墜落事故が起きる1985年にナイロビ支店長、翌1986年には帰国して会長室部長に就いた。その後ナイロビ支店長を再発令されるなど、まさに『沈まぬ太陽』さながらの会社員人生だった。

 それでも1990年10月に60歳で日航を定年退職すると、写真と執筆の活動を本格化させ、1年の3分の1以上を東アフリカで暮らすようになる。著名人らと「サバンナクラブ」を結成し、会長代行兼事務局長として東アフリカ諸国との友好や自然保護に取り組んだ。

■取締役と労組委員長

 実は、この小倉寛太郎氏と拙著『日航・松尾ファイル』(徳間書店)の元日航取締役(技術・整備担当)の松尾芳郎氏(94)は、旧制湘南中学校の同級生だった。当時、太平洋戦争中だけに2人は活躍する日本の戦闘機や輸送機に強い憧れを持ち、意気投合して飛行機の話題に夢中になった。しかし後年、日本航空社内で航空エンジニアの頂点に立つ取締役とストライキを繰り返す労組トップという真逆の立場となる。そして松尾氏が何度も「ボーイング社の修理ミスによる後部圧力隔壁の金属疲労が、墜落事故の原因だ」と説明しても小倉氏は「自衛隊機、あるいは米軍機によるミサイルの誤射が原因だ」と主張して譲ることはなかった。墜落事故の直後にはこの小倉氏の主張が日航社内で当然の事実のように語られ、その後、書籍化が進み、陰謀論・撃墜説となっていく。いまはYou Tube(ユーチューブ)などのSNSで拡散されている。振り返ると、陰謀論・撃墜説のルーツ、正体は40年前の小倉氏の主張なのである。

 松尾氏が小倉氏についてこう指摘している。

 「戦後、国鉄の労組が大規模なストライキを敢行した。活動家たちは国鉄の次に日本航空に狙いを付けた。その先頭に立ったのが小倉君です」

 「小倉君は日航で乗員組合と客室乗員組合を組織化してストライキを繰り返し、経営に大きな打撃を与えた」

 「小倉君は筋金入りの活動家だった。現在、陰謀論・撃墜説を固持し、書籍化するなどして主張しているのは、かつて小倉君のもとで活動していた人たちだ」

 陰謀論・撃墜説は非科学的でエビデンスに欠け、他人の好奇心をくすぐり、遺族を苦しめる。反社会的である。陰謀論・撃墜説に立つ書籍の著者や出版社は、自らの社会的責任をどう考えているのだろうか。

■事故調の爆発物の調査

 群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落した日航ジャンボ機は、ボーイング社による後部圧力隔壁の修理ミスが原因で客室の与圧空気が機体尾部の非与圧空間に噴出し、垂直尾翼や油圧システムを吹き飛ばし、機体は操縦不能に陥って墜落した。当時の運輸省航空事故調査委員会(事故調)はフライト・データ・

レコーダーとコックピット・ボイス・レコーダーの解析、それに墜落現場で見つかった隔壁の損傷状態から極めて科学的にこの結論を導き出している。

 爆撃の有無についても、事故調は1987年6月に公表した調査報告書の「爆発物等に関する調査」(本文63ページ)に次のように記している。

 〈墜落現場及び相模湾等から回収された機体残骸のうち、客室内装材、化粧室内装材、後部圧力隔壁、垂直尾翼取付部及び水平尾翼取付部等から採取した試料約160点について、火薬、爆発物等の含有の有無について調査した結果、いずれの試料からもアンモニウム、塩素等(無機物)及びニトログリセリン、

トリニトロトルエン(有機物)の成分は検出されず、また各残骸の破損状態から爆風を受けた形跡等は認められなかった〉

 つまり事故調の調査の結果、ミサイル、砲弾、弾丸など爆発物の存在が皆無であることは明らかなのだ。陰謀論・撃墜説を主張する人たちはこの事故調の見解をどう考えるのか。それでも陰謀論・撃墜説が正しいというのなら、まずは調査報告書のこの「爆発物等に関する調査」を科学的に否定すべきである。

墜落事故直後の御巣鷹の尾根で手を合わせる自衛隊員。陰謀論・撃墜説の問題は国会

でも取り上げられ、今年4月10日の参院外交防衛委員会では中谷元防衛相が「(墜落

に)自衛隊の関与は断じてない」と話した。(提供・産経新聞)

◎慶大旧新聞研究所OB会によるWebマガジン「メッセージ@pen」の2025年7月号(下記URL)から転載しました。

御巣鷹40年 陰謀論・撃墜説の正体を暴く | Message@pen