2019年12月03日(令和元年) 元文部科学大臣秘書官 鳥居徹夫
今年2019年は「連合結成30年」「ILO結成100周年」の節目の年でした。
昭和期は、総評・同盟など労働団体が分立していましたが、平成の始まりに労働戦線が再編され、「連合」が誕生しました。
連合が結成されたのが1989(平成元)年。新しい年号となった令和の初めての年2019(令和元)年に結成30年を迎えました。
★求められた勤労者パワー! 生活改善を政治に
連合結成までは、勤労者とその家族が、国民の大多数でありながらも、政治や行政、政策に勤労者の声が届くことはありませんでした。
昭和時代の政治や行政は、農協、土建業、経済団体、商工会、医師会、郵便局長会など、いわゆる圧力団体が幅を利かせ、族議員・規制官庁・利権集団の強固な「鉄の三角形」を築いていました。
一方、勤労者や労働組合の支援する政党は、反米・反安保・反自衛隊などの政治闘争には熱心でも、税制一つとっても勤労者の生活にも無関心でしたし、労働組合も税金の使われ方への関心が薄かったのです。
労働者や労働組合は、これらの政党にとって票田でしたが、農協など圧力団体のように、政治を通して予算措置や税制など政策要求を求める行動は、ほとんどみられませんでした。
当時はベルリンの壁崩壊の前で、「前衛党(共産党)が労働組合、大衆を指導する」という階級闘争史観が、金科玉条のように唱えられていました。労働組合は下部組織で、共産党が上部組織という感覚で、政治闘争に労働組合、勤労者を先導(扇動❓)していました。同様に日本社会党も、共産主義運動の影響を強く受け、左翼的な階級闘争路線に流されていました。
つまり勤労者のための政治・行政の実現は、支援する政党や議員活動の隅っこに追いやられていたのです。
それまで、民間企業に働く勤労者の生活福祉は、企業内で完結してきました。賃金など労働諸条件はもとより、企業内福祉も社員を企業で定年まで働くことを前提に整備がすすんでいました。また住宅も社宅として企業が用意していました。
今でもそうですが、税金も給与から企業が天引きし、年末調整まで行ってくれます。
勤労者の生活(福祉関係も含めて)は、会社丸抱えと言っても過言ではない時代でした。
ところが高度経済成長の終焉し、また1973(昭和48)年暮の石油ショックで狂乱インフレが勤労者の生活を襲ったのです。
翌1974(昭和49)年度の賃上げ率は32.7%でしたが、実質生活の向上は1973(昭和48)年度15.6%、1974(昭和49)年度20.9%の物価暴騰と、クロヨン(9・6・4)といわれる勤労者に不公平な税制、当時の高い累進課税も相まって期待すべくもありませんでした。
石油ショック後の不況で、勤労者の名目賃金さえも伸びず、税収欠陥から1975年度から政府は赤字国債を発行しました。この赤字国債は、勤労者のために発行したのではなく、高度成長の惰性で肥大化し続けた行政機構に改革のメスが入らなかったのであり、放漫行財政による税収欠陥の穴埋めとされてきたのです。
勤労者の生活改善を政治に反映させるためには、労働組合が政治に関心を持ち、農協、土建屋などに匹敵するパワーを持たなくてはならないという強いニーズでした。
労働組合が政策制度課題に関心を持たざるを得なかったのは、いかに賃金が上がっても、物価や税金が高ければ、実質生活水準が維持できなくなったことが実感されたことであり、それが1976(昭和51年)の労働四団体横断的な政策推進労組会議の発足につながったのです。
政策推進労組会議は、源泉徴収のサラリーマンに不利な税制や、当時の狂乱インフレから組合員や国民の生活を守るという、政治闘争主義を排した本来の労働組合運動をめざしました。
★パワーが低下した圧力団体、勤労者の声が政治反映へ
政策推進労組会議の当初の政策制度の取り組みは、経済政策、雇用、物価、税制の4つからスタートしました。これらは、いずれも企業内の労使交渉で解決できる課題ではありません。
やがて年金・医療、土地・住宅、資源エネルギー、男女共同参画、行政改革、さらには、教育、食糧、環境まで拡大し、今日では労働全般や社会生活をとりまく、あらゆる分野にわたっています。
注目すべきは、税制・物価などとともに、行政改革を政策要求の一つとして大きくとりあげたことです。
当時の大平正芳内閣は、税収不足を行政改革ではなく一般消費税の導入をはかり、国民の負担により赤字国債依存体質の転換を図ろうとしましたが、1979(昭和54)年の総選挙で自民党は惨敗しました。
大平内閣の後を受けた鈴木善幸内閣は、1981(昭和56)年に、第二次臨時行政調査会(土光敏夫会長、いわゆる土光臨調)を発足させ、その後の行政改革の流れをつくりました。
その時の行政管理庁(省庁再編前)長官が、11月末にご逝去された大勲位・中曽根康弘でした。
その土光臨調が最初に手がけたのが、当時の国鉄(いまのJR)をはじめとする三公社(国鉄、郵便と、タバコ・塩などの専売公社)の民営化でした。
官公労が主力で共産系も多かった総評は、行革反対の政治闘争を、春闘など経済闘争との結合を図ろうとしましたが、総評内の民間労組はソッポを向きました。
それどころか総評の民間労組の多くは、総評加盟でありながらも土光臨調応援を鮮明にした政策推進労組会議の主要な構成メンバーでした。
土光臨調と、民間労組の臨調委員を支援サポートする政策推進労組会議は、税金の無駄遣いをなくし、血税の重みを知る政治・行政のあり方を、納税者の立場から提起しました。
当然のこととして、総評内でも税金で生活する官公労組と、税金を取られる民間労組の亀裂が深まるばかりでした。また共産系労組の総評からの離脱を招いたこともあって、それが労働戦線統一の大きなうねりになりました。
政策推進労組会議は、1982(昭和57)年に発足した全民労協を経て、1987(昭和62)年に民間労組のナショナルセンターとして民間連合が結成されました。そしてその2年後の1989(平成元)年に、民間連合と官公労組が合流して、いまの「連合」が発足したのです。
連合は、サラリーマン・勤労者を組織している労働団体ですが、それとともに日本最大の納税者組織です。
連合発足後に結成され、後に政権党となった民主党の基本政策には「生活者、消費者、納税者のための政治」が掲げられ、また自民党においても「自民党をぶっ壊す」と絶叫した小泉純一郎氏が首相となりました。
この小泉改革は、国民生活や日本社会をも壊しましたが、いわゆる圧力団体のパワーの低下は、この連合運動が道筋をつけたと言っても過言ではありません。
連合30年の最大の成果は、勤労者の声が政治や行政に不十分ながらも届いたことで、いかなる政権であっても、勤労者を無視した政策はできなくなったことです。
ただ唯一の例外は、民主党政権3年3カ月の後半でした。政権をとるまでは、まさに「魚を釣るためにはエサをつけた」ものの「釣り上げた魚にエサを与える必要がない」というものでした。
こともあろうに民主党政権は、財務省のパペット(操り人形)というのか「パーなペット」に堕し、緊縮財政下の増税路線でデフレを深刻化させたのです。
これは連合組合員にとって、「地獄絵のような民主党政権」であったといっても過言ではないでしょう。
★供給サイドの政治行政から、生活者・納税者の需要サイドへ
つまり供給サイドの政治行政から、消費者・納税者という需要サイドに、政治行政のシステムが大きく転換したことです。
もちろん今でも供給サイドのシステムが、教育行政などの分野では岩盤のように立ちはだかっています。
かつて「社会工学・大衆運動分野における20世紀最大の発明は労働組合」と指摘され、21世紀に消えるものは、「二〇世紀ナシ(梨)と労働組合」と揶揄されましたが、いまや労働組合の活動領域は「最大の納税者組織」として広がっています。
そもそも労働組合の運動の目的は、勤労者の経済的・社会的・政治的地位の向上です。これは現在・過去・未来、古今東西とも変わりのないことです。