2022-06-02(令和4年) 木村良一(ジャーナリスト、元産経新聞論説委員)
■人口の7・6%が感染して発熱した
北朝鮮が初めて新型コロナウイルスの感染を公表した。5月12日、国営メディアの朝鮮中央通信が「平壌(ピョンヤン)で発熱者から採取された検体から変異ウイルスのオミクロン株が検出された。国内で初めて感染者が確認されたことになる」と報じたのである。
北朝鮮はこの日、朝鮮労働党政治局会議を開催して金正恩(キム・ジョンウン)総書記が「最大非常防疫体系」への移行を宣言するとともに全国の都市の封鎖を指示した。ゼロコロナ政策を掲げる中国と同じロックダウン(都市封鎖)だ。会議の模様を報じた朝鮮中央テレビの映像には、金正恩氏をはじめ出席者全員がマスクを着けている様子が映し出された。翌13日には朝鮮中央通信が「4月末から原因不明の熱病で35万人が発熱し、6人が死亡した」と発表した。
初の公表から1週間後の19日に朝鮮中央通信が発表したところによると、4月末から18日午後6時までの発熱者は197万8230人、死者は63人で、74万160人が治療を受けている。北朝鮮の人口が2600万人(推定)というから人口の7・6%が感染して発熱したことになる。
北朝鮮の医療体制は脆弱だ。ワクチンはなく、接種を受けた国民はいなかった。疫学調査の能力にも乏しく、感染の実態をまとめ上げて報告するシステムも整っていない。この点から判断しても、実際の発熱者数は公表された数の数倍以上に及んでいるはずだ。感染者の数ではなく、発熱者数を使っているのはPCR検査や抗原検査のキットが不足し、不顕性の症状のない感染者を把握できていないからだ。感染者の数も公表されている発熱者数の数倍以上に跳ね上がる。
■なぜ感染を公表したのか
これまで北朝鮮に感染者がいなかったというのは本当だろうか。虚偽だと思う。パンデミックを引き起こすと、感染症はあっと言う間に世界中に広がる。ましてや現代社会は交通網が発達してグローバル化が進んでいる。2年間にわたって中朝国境を封鎖して鎖国状態(水際対策)を取ってきたといっても、北朝鮮は中国などとの交流がなくては国を維持できない。交流は人の動きそのものである。ウイルスは人の動きに乗じて侵入してくる。しかも症状のない感染者(不顕性感染者)が多い。新型コロナウイルスが北朝鮮には存在しなかったというのは、にわかには信じがたい。
それでは感染者ゼロを強調してきた北朝鮮がなぜ、ここに来て一転、感染を公表したのだろうか。北朝鮮は今年1月に中朝間の鉄道貿易を再開している。4月15日には首都の平壌で金日成(キム・イルソン)主席の誕生110年を祝う市民パレードに数万人が参加し、25日には兵士2万人と全国各地の代表が集まった史上最大規模の軍事パレードが行われた。みなマスクを着用せずに参加していた。この軍事パレード後に全国で発熱者が次々と現れた。
中朝間の鉄道貿易を再開した1月はちょうど、感染力の強いオミクロン株が世界中に広がっている最中で、このときに中国から散発的に北朝鮮国内にオミクロン株が侵入してきたのだろう。鉄道貿易の再開当初は感染に注意していたが、次第に警戒心が薄れ、ウイルスは北朝鮮国内で感染を広めていった。そこに市民パレードと軍事パレードの大イベントである。大勢の人々が接触し合うことで、ウイルスが一気に拡散していったとみられる。
■狙いは国民の不満解消にある
オミクロン株は猛烈な勢いで感染していく。日本では今年1月から第6波を形成し始め、2月には大きな感染の山を作った。毒性は弱いものの、感染力はそれまでのアルファ株やデルタ株の数倍だ。どこの国も放っておくと、医療が逼迫し、社会インフラが機能しなくなる危険性がある。特に北朝鮮は医薬品の備蓄が少なく、食料不足も続いている。麻疹や腸チフスといった感染症もかなり流行している。国民は不安になり、政権に対する不満や不信が高まる。暴動が起きかねない。政権内部では忠誠心が弱まる。国家そのものが崩壊しかねない事態に陥る。致命傷を負うのは、独裁者の金正恩氏である。
金正恩氏は急激に感染が広まったことで、「もはや『感染者ゼロ表明』」は効果がない」と判断したのだろう。そこでまず人心を落ち着かせて不安と不満、不信を解消するために、初めて感染者の公表に踏み切り、政権が感染防止対策に尽力していることをアピールしたのである。金正恩氏は16日、医薬品の供給に軍隊(朝鮮人民軍)を投入、17日には朝鮮労働党政治局常務委員会会議で党幹部らを露骨に批判し、「積極性に欠ける態度と緩みが問題を増やした」と怒った。
それにしても金正恩氏の邸宅にあった常備薬を「愛の不死薬」と称して国民に提供する映像を流し、「蜂蜜をなめろ」「コーヒーを飲むな」「柳やスイカズラの葉を煎じて飲め」とピーアールするなど北朝鮮の新型コロナ対策には驚かされる。
■国際社会のワクチン提供も拒絶した
韓国の新大統領は施政方針演説で「北朝鮮の住民に必要な支援を惜しんではならない」と述べたが、北朝鮮側は医療支援を受けるつもりはないようだ。昨年には国際的枠組みのCOVAX(コバックス)のワクチン提供も拒絶した。なぜ北朝鮮は支援の申し出に応じようとしないのか。対外的には支援を受ける条件として核・ミサイル開発の中止を求められ、国内的には金正恩政権の感染対策の失敗を認めることになるからだ。
その一方で北朝鮮は大型輸送機(旧ソ連製のイリューシンIL-76)3機を中国の遼寧省瀋陽の空港に飛ばし、16日に医療品を積み込んで北朝鮮に戻ってきた。核・ミサイル開発を止めようとしない北朝鮮は欧米の国際社会から非難されている。それでも中国は救いの手を差し伸べ、北朝鮮にとっての国家運営の手本にもなっている。国連の安全保障理事会の5月26日の採決でも、中国はロシアとともに北朝鮮への新たな制裁強化をめぐって拒否権を行使し、議決案を否決させた。同じ専制主義、強権体制の国家同士だから手を結びやすいのだろう。もちろん中国にも思惑や打算はある。ゼロコロナ政策をWHO(世界保健機関)から批判されるなか、北朝鮮を人道的に支援することによってその批判をかわし、習近平(シー・チンピン)政権はゼロコロナ政策の正しさを国際的にも国内的にも宣伝できる。
■朝日も産経も的外れなところがある
朝日新聞の社説(5月20日付)が「国際社会は積極的な医療支援に乗りだし、北朝鮮はそれを速やかに受け入れるべきだ」と書き出していた。その朝日社説は「核・ミサイル開発に莫大な資金をつぎ込み、その結果、国連安保理決議にもとづく厳しい経済制裁を受けている。社会インフラの整備を後回しにし、いびつな国家運営を続けてきたツケが回ってきたと言える」と指摘する一方で、「中国、韓国のみならず、近隣を含む国際社会は人道的な支援を惜しんではならない」とも訴えている。
書き出しや前段中の「いびつな国家運営を続けてきたツケ」はその通りだが、後段の「人道的な支援」はうなずけない。感染症対策は「人道」という側面だけでは成り立たないからである。
産経新聞の社説(主張)も18日付で、「北コロナ感染拡大 まず軍事挑発停止が先だ」(見出し)と訴え、「感染確認を発表した12日にも弾道ミサイルを3発発射し、核実験実施の構えも見せるなど、軍事的挑発をエスカレートさせている」と強調している。だが、この産経社説も納得がいかない。新型コロナ対策と核・ミサイル開発の問題を同じ次元で捉え、軍事的挑発行為を止めるのが先だと主張しているからだ。
医療体制が脆弱な北朝鮮で感染が拡大し続けると、感染爆発を繰り返し、その過程でさまざまな変異ウイルスが生まれては消え、消えては生まれる。そしてより感染力が強い変異株が生き残る。イギリス由来のアルファ株やインドで発生したデルタ株、それに南アフリカで最初に確認されたオミクロン株はこうした変異株の代表格だ。オミクロン株の派生株や遺伝子の交雑(組み換え)によるXD、XEも見つかっている。
北朝鮮内でより感染力の強い変異株が新たに登場すると、瞬く間に世界各国に広がる。その毒性が強いと、キラー(殺人鬼)ウイルスと化し、人々を次々と襲う。まるでSF・ホラー映画のようだが、決して誇張しているわけではない。朝日社説も「ワクチン未接種国の北朝鮮で新たな変異株が生まれる可能性も懸念される」と指摘している。
北朝鮮への医療支援は、北朝鮮を助けるだけでなく、世界各国を新たな変異株の危機から救うことにつながる。ここは「経済制裁を強化するぞ」と強く脅してでも、支援を受け入れさせるべきである。
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※慶大旧新聞研究所OB会によるWebマガジン「メッセージ@pen」の6月号(下記URL)から転載しました。
「コロナと北朝鮮」経済制裁を強化してでも医療支援を受け入れさせるべきだ | Message@pen (message-at-pen.com)