2023-07-03(令和5年) 木村 良一(ジャーナリスト・作家、元産経新聞論説委員)
新田次郎の小説の舞台にもなった劒岳(つるぎだけ)。山頂には祠(ほこら)が祭られ、北アルプスの山々と富山湾が見渡せる=2017年9月4日、筆者撮影
■山頂に立ったところ
新型コロナウイルスによる未知の感染症が発生し、中国湖北省武漢市でアウトブレイク(地域的流行)が始まったのが2019年12月だった。それ以来3年半以上にわたってほぼ毎月毎回、新型コロナの問題点をこの「メッセージ@pen」に書いてきた。数え上げてみると、感染症に関係した筆者の記事は約40本になる。
この3年半という間に世界中に感染が拡大して多くの死者も出した。だが、幸いなことに画期的なmRNAワクチンが登場し、より多くの人々が免疫を獲得した。重症の新型肺炎に対する治療方法が確立し、治療薬の開発や後遺症治療の研究も進んでいる。
日本では5月8日に感染症法上の扱いが2類相当から5類に変わるなど、新型コロナと私たちとの関係、つまり防疫の態勢や感染した場合の対症方法は一般的なものになってきた。
登山にたとえればこうだろう。長く続く林道を歩いて登山口に入り、その先の急登を登り切って森林限界のハイマツの生い茂る尾根筋に出る。さらに登り続け、石で埋め尽くされたガレ場の斜面を突き進んだ後、山頂直下の肩の小屋に宿泊し、日の出とともに岩稜をよじ登って頂上に辿り着いたところだ。
眼下には尾根と沢がいく筋も延び、遠くの山々が霞んで見える。途中、激しい雨や強風、落石にも遭遇したが、いまは頂上から見える景色を楽しむ余裕がある。
新型コロナに話を戻すと、これまでの3年半の体験や経験を足場にして感染症を考えるときである。折に触れ、「感染症とは何か」について考察し、書いていきたい。
■沖縄と中国で感染再拡大
最新の新型コロナの感染状況はどうだろうか。厚生労働省が6月23日に公表した全国の約5000定点の医療機関(病院、診療所、クリニック)からの報告によると、18日までの1週間の感染者数は2万7614人で、1医療機関あたり5.6人だった。前の週の1.1倍の感染者数で、11週連続で増加が続いている。
都道府県別の1医療機関あたりの感染者数を見ると、沖縄県が28.74人と最大で、これに鹿児島県の9.6人、千葉県の7.57人、愛知県の7.22人、埼玉県の7.02人が続き、32の府県で前の週より増加した。沖縄県では患者の入院先を探すのに1時間もかかる事例が発生し、医療提供体制がひっ迫しはじめている。
厚労省は「全国的に緩やかな増加傾向が続いている」と分析しながらも、「沖縄県では第8波のピークに近い水準になっている」と警戒する。感染の専門家らは「蒸し暑くなる時期を迎えている。換気の徹底など3密(密閉・密集・密接)を避け、感染リスクの高い場面でのマスクの着用、手洗いの徹底という基本的な感染対策をあらためて思い出してほしい。ワクチンの追加接種をしていない、高齢者や基礎疾患がある人は追加接種を考えるべきだ」と注意を呼びかけている。
中国でも感染が再拡大し、今後1週間当たりの新規感染者が6500万人に達するとの専門家の見方も出ている。習近平(シー・チンピン)政権は昨年12月、強制的なゼロコロナ政策を中止し、その直後に感染が爆発的に広がり、全人口の8割以上が感染したと推計され、今回の感染の再拡大はそのときにできた感染者の免疫の弱まりが原因ともいわれている。
■防疫のための3つの戦略
5月29日、内閣官房参与で川崎市健康安全研究所所長の岡部信彦氏が日本医学ジャーナリスト協会の5月例会で新型コロナの3年半を振り返りながら講演した。場所は東京・内幸町の日本記者クラブの会見場だった。岡部氏はこれまでに鳥インフルエンザ、SARS(重症急性呼吸器症候群)、新型インフルエンザ、MERS(中東呼吸器症候群)の防疫に貢献し、新型コロナ対策では政府の対策分科会などの中心メンバーとして活躍した。日本を代表する感染症対策の専門家である。綱町三田会(慶大旧新聞研究所のOB会)のジャーナル分科会や学生とOBによるミニゼミにもゲストや講師として計3回、出席してくれている。
講演で岡部氏は世界の国々が取ってきた新型コロナ対策の戦略を3つに分類する。その1つ目が徹底して感染者を出さない「封じ込め(containment)戦略」で、中国のゼロコロナ政策がこれに該当する。2つ目が感染者の数の増加を気にせずに重症者の治療に力を注ぐ「被害抑制(mitigation)戦略」である。当初スウェーデンがこの戦略を取ったが、一時感染者数が異常に増え、それにともなって死者数も増加してしまった。しかし、現在は多くの人々が感染したり、ワクチンを接種したりして免疫ができ、世界がこの戦略を取るようになっている。3つ目が感染者の数を抑制して死者の数を一定数以下にする「感染抑制(suppression)戦略」である。封じ込め戦略と被害抑制戦略との中間的な戦略で、「死者を1人でも少なくしよう」と努めてきた日本の対策がこれに当たる。
岡部氏は「封じ込めの戦略は医療の負担は軽くなるが、社会・経済活動はかなり制限される。逆に被害抑制の戦略は社会・経済活動への影響は少なくなるものの、医療負担は増す。どちらの戦略に傾けるか、このバランスがすごく難しい」と強調していた。
■葬祭業者のおかしな対応
ところで、沖縄と中国で新型コロナの感染が再拡大していると指摘したが、日本全体としては感染の大きな波は出現していない。前述したように登頂を成し遂げ、落ち着いた状態にある。しかし、山の頂に立てたことを喜んでいるだけでは駄目だ。折り返し点だし、今後は過酷な下山も想像される。この余裕のある時期に「新型コロナの正体」「人と感染症の関係」「社会と感染症」についての考察を深めていきたい。「喜んでいるだけでは駄目だ」と書いたのは、感染症など医学・医療問題を専門のひとつとするジャーナリストの自分に対する戒めである。
人と感染症の関係で把握しておきたいひとつが、通夜や告別式での故人との最後のお別れの場をなくした葬儀社(葬祭業者)のおかしな対応である。岡部氏も講演の中で問題視していたが、呼吸もしていない遺体から新型コロナウイルスが飛び散って感染することはないのに、葬祭場(斎場)側は遺体と遺族の接触を避け、すぐに焼骨していた。
新型コロナに感染して2020年3月29日に70歳で亡くなったザ・ドリフターズの志村けんさんのケースは象徴的だった。志村さんの遺体は病院の安置所から直接、火葬場に送られた。遺族は火葬場に行くことができず、霊柩車を合唱して見送るだけしか許されなかった。もちろん看取りもかなわなかった。最後は志村さんの兄が自宅近くで遺骨を受け取った。
それにしてもなぜ、葬儀社はここまで徹底したのか。「あの葬祭業者の扱った葬儀で感染者が出た」との風評被害を恐れ、極端に対応したからではないだろうか。
未知の感染症が流行すると、不安や恐怖が増し、過度の防疫措置を取る。その結果、社会・経済の活動が停滞し、他人に過度の感染対策を強要する同調圧力や自粛警察を生む。感染症は「社会の病」である。医学・医療の観点からだけでなく、社会学、心理学、倫理学、哲学の視点からも考えていく必要がある。
―以上―
◎慶大旧新聞研究所OB会によるWebマガジン「メッセージ@pen」の7月号(下記URL)から転載しました。