文部科学省とは一体的だが、 連合内では浮いている日教組‼


2019-02-08(平成31年) 元 文部科学大臣秘書官  鳥居徹夫

 

 

連合の民間労組を唖然とさせた文部次官通達

 

産経抄(平成31年2月2日付)は、1994(平成7)年の日教組と文部省(現文部科学省)との歴史的和解は、文部省が日教組と一体化し、文部省が日教組の影響を多大に受けていたと喝破した。

この当時、労働団体の連合は、結成直後であった。そこへ日教組など旧総評系が「子どもの権利に関する条約早期完全批准運動」持ち込んだが、民間労組の総反発を浴び、日教組は惨敗。

この条約の正式名称は「児童の権利に関する条約」であり「子ども…」ではない。

ところが、この日教組に助け舟を出したのが文部省であった。文部省は条約名称に「子ども…」を使ってよいとする文部次官通達を発し、連合の民間労組を唖然とさせた。

 

児童・生徒を前面に立て政治的運動に転嫁を狙った左翼 

 

1889(平成元)年の連合発足の直後に、日教組が連合に持ち込んだ運動に「子どもの権利に関する条約早期完全批准運動」があった。

この運動は、イデオロギー色が強く、連合内に混乱と対立を招いた。

総評や共産党は、条約に「子どもの意見表明権」(12条)があると主張し、「子どもを従来の保護の対象から権利の主体へと、子ども観のコペルニクス的転換がみられる」とした。

また表記についても、日教組や共産党系組合は「子供」ではなく「子ども」とし、「お供えではない」「お供ではない」という説明をしていた。

日教組や共産党の当時の主張と運動は、児童・生徒に大人と同様の主体的権利行使能力を本能的に生まれながらに持っているかのような極端な条約解釈で、しかも子供を前面に立てた政治的運動を奨励するかのような解釈のオンパレードであった。

つまり「入口は子どもの人権、出口は日の丸・君が代反対」の運動への歪曲や、さらには徒党を組んだ(中国の文化大革命のときの)紅衛兵騒動の高校版、中学校版を煽動するかのような主張や運動を意図したもので、児童生徒を扇動しての教育現場の左傾化であることは目に見えていた。

これに対し連合の民間労組は、児童・生徒を前面に立て政治的運動に転嫁を狙うもので、条約本来の趣旨に反すると猛反発し対決した。

左翼イデオロギーに染まった児童・生徒と、左翼教師との結託による「恐怖の学級運営」となれば、多くの児童・生徒に対する人権抑圧に通じる。これでは「人格の完成」(教育基本法第1条)を目指す教育現場が、「人格の未完成」を拡散しかねないと、民間労組は強く反発した。

 

条約の正式名称は「児童の権利に関する条約」

 

連合内では、条約の名称をめぐり「児童‥」とするか「子ども‥」とするかでも紛糾したが、政府の公式訳が出されるまでは「子ども…(仮称)」とすることで、ようやく一応の確認をみた。

ところが、当時の連合事務局員の意図的な大会議案書の改ざんが、その混乱に火に油を注いだ。

日本教育新聞(1991.12.07付)によると、連合第2回大会の配布資料に(仮称)が抜けていたため、議案書を刷り直す事態もあったという。

条約の批准は、1994(平成6)年に細川護煕(もりひろ)内閣のときに国会で議決され、名称は「児童の権利に関する条約」とされたことから、連合の公式文書では条約名称は「児童…」だけである。(仮称)も消えた。

この条約は、世界人権宣言(1948年)や日本の児童福祉法(1947年)、児童憲章(1951年)の理念を継承し、その延長線上に位置づけられる。

当時の左翼的な総評型国民運動の連合へのなだれ込みを、民間労組が阻止したものでもあり、日教組の完敗となった。

この日教組に、こともあろうに助け船を出したのが文部省(現・文部科学省)であった。

1994 (平成6)年5月20日付で、坂元弘直文部事務次官が発出した「児童の権利に関する条約について」と題する通知である。

この文部次官通知は、条約名称について「児童のみならず子どもという語を適宜使用することも考えられる」(第8項)とされ、連合内の民間労組は唖然とさせられた。

条約を主管する外務省はもとより、共管の法務省、厚生省、労働省、総務庁、警察庁、青少年対策本部(当時の省庁名称)も、条約名称は「児童の権利条約」だけである。

「子ども…」も条約名称に使ってよいというのは文部省だけであり、日教組に配慮したのかと断じざるを得なかった。

 

条約の正文は「views」で「opinion」ではなかった。

 

俗に「子どもの意見」と称されるところの条約の正文は「the views of the child」である。

ところが日本語の「意見」という語感は「views」ではなく、むしろ「opinion」に近い。

権利条約をめぐる論議で、日教組をはじめとする左翼勢力は「日の丸・君が代反対の子どもの意見尊重が必要」と主張したが、日の丸・君が代に限らず日米安保の是非等は「opinion」であり、条約正文の「views」 ではない。

条約正文の「view(s)」 は、意見というよりむしろ「見方」「考え方」「感じ方」「受け止め方」という意味であり、人によって白黒が二分されるというものではない。

条約第12条は、「適切な重み」(due weight)が「与えられる」(being given) 「児童の見方・考え方」(the views of the child)という理解の方が適切である。

左翼の訳文にある「子どもの意見が正当に重視される」というのは、子どものオピニオンが絶対的であるかのようなイメージが一人歩きしてしまう。

もちろん「適切な重み」(due weight)という条約正文の趣旨からは、それを無視ないし軽視することにはならないことは言うまでもない。むしろ「ふさわしい考慮が払われる」という理解の方が条約に忠実であろう。

言うまでもなく、この条約により、子供観がコペルニクス的に転換したという主張こそが、まさしくピントはずれで歪んでいるのである。

 

連合内で浮いている日教組

 

総評や日教組が、この「子どもの権利条約 早期完全批准運動」を連合に持ち込んだのは、それを突破口に、当時の左翼的な総評型国民運動の「連合なだれ込み」を狙ったものと言われていたが、ものの見事に跳ね返された。

連合の左傾化工作は、今日段階では頓挫している。

民間労組が、理論面でも運動面でも総評や日教組を凌駕し、さらに総評系の連合事務局員の(仮称)を意図的に欠落させたという陰湿な工作をも跳ね返したのであった。

たしかに日教組は連合加盟であるが、連合内では今も浮いている。

それは「子どもの権利に関する条約早期完全批准運動」の大惨敗が、いまなおボディブローのように効いているからである。

ちょうどこれは、左翼のグランド(総評運動)で、教育問題のエース(日教組)が投じた決め玉(権利条約)が、アウェイの打者にクリーンヒットされたことで、ガタガタに崩れたチームに似ている。

左翼総評運動までも、道場破りに惨めな敗北を喫したようなものであった。そして連合は、今年11月に結成30周年を迎える。

 

ー以上ー