「葬送」 さようなら門田守人先生 わが心の師だった


2023-10-03(令和5年)木村良一(ジャーナリスト・作家、元産経新聞論説委員)

梅雨時の雨にもかかわらず、慶應大学南館の教室に足を運んで医学・医療について話をしてくれた=2019年6月29日、東京都港区三田(撮影・木村良一)

■「また一杯」と考えていた矢先
 その訃報は突然、入ってきた。
 9月7日午後5時すぎ、机の上のスマホが鳴った。親しい医療関係者からで、出ると「門田守人(もんでん・もりと)先生が亡くなられたらしい」と告げられた。庭先のキンカンの葉っぱの間を小さな青いイトトンボが飛んでいるのを見つけ、「これは珍しい」とカメラを取りに2階の仕事場に戻ったところだった。
 「うそだ。何かの間違いだろう」と思いながら、確認を急いだ。方々に電話をかけまくった。その結果、この日、羽田空港を飛び立って大阪空港に着いた直後に倒れて救急搬送され、午後3時9分に大阪市内の病院で死亡が確認されたことが分かった。訃報の一報をもらったときから遡ると、2時間前になる。急逝だった。まだ78歳だった。高名な医師だけに死亡は新聞やテレビ、ネットでも報じられた。
 ここ数年、週の前半は東京で会議をいくつもこなし、後半は自宅のある芦屋に戻って仕事を重ねていた。蒸し暑い残暑が続くなか、疲労が蓄積していたのかもしれない。そう言えば、5年ほど前、心臓に梗塞か何かの兆候が見つかり、「1カ月間、入院していたよ」と本人から聞いたことがあった。だが、その後、体調に問題はなかったはずだ。
 それにしても急だった。言葉が出なかった。教えてもらいたいことがまだたくさんあった。仕事がひと段落したら「一杯やりたい」と考えていた矢先である。それだけに悔しく、時間が経てば経つほど悲しくなってくる。

■「生きてることは当たり前ではない」
 大阪大学医学部教授を経て同大学副学長、日本癌学会会長、日本外科学会会長、厚生労働省がん対策推進協議会会長、がん研究会有明病院院長などを歴任し、2015年から日本臓器移植ネットワークの理事長、2017年からは日本医学会と日本医学会連合会の会長に就いていた。
 ここまで医学・医療関係団体のトップをいくつも務めるのは珍しいが、「『何とかしなきゃならん』と火中の栗を拾う思いで引き受けてきた」と話していた。「守人」という名前も「人々を守る存在になれ」と付けられたと聞いたことがある。
 もともとは肝臓の外科医で、肝移植や肝がんの手術を多く手掛けた。だが、その道のりは順風満帆だったわけでない。大阪大学医学部の助教授だった1991年(平成3)年7月、脳死肝移植ではなく、心停止後の肝移植を試みたが、ドナー(臓器提供者)の肝臓の状態が悪く、移植する前に断念した。それでも殺人罪で大阪地検に告発された。当時は脳死移植が合法的ではなく、殺人罪の告発が相次いでいた。まだ和田心臓移植(1968年8月)の悪影響が残っていた。移植医療の冬の時代だった。
 1945(昭和20)年8月8日に広島県福山市で生まれた。その日に福山大空襲があった。2日前には広島に、翌日の9日には長崎に原爆が投下された。32歳のときには、豪雨の名神高速で、運転していた車がハイドロプレーニング現象(タイヤが水膜で浮き上がり、ハンドルやブレーキが効かなくなる状態)を引き起こし、ガードレールに激突して大破し、九死に一生を得た。1995(平成7)年1月17日には阪神淡路大震災に遭遇している。
 こうした経験を「命に関わる自分史」と表現し、「自分が生きていることが奇跡だと思う。人は生きてることが当たり前ではないとの認識を持つべきだ」とよく語っていたのを思い出す。

■医学の使命は人を治すこと
 「高名な医師」と書いたが、偉そうな素振を見せたことはなかった。威張るようなことも決してなかった。ただし、言うべきところはきちんと主張していた。たとえば、がんの告知について「患者本人が命の短いのを知らないのに周囲ががんの罹患を知っているのはおかしい」と考え、「隠すのは駄目だ」と繰り返してきた。いまはがんの告知が一般的になっている。医療過誤にも「公にすべきだ」と主張した。日本医師会の権威とも戦った。
 謙遜して「物事をすんなり受け入れない、斜に構えるへそ曲がりの性格だから」と話していたが、まだだれも言わないときにそれを主張するのはなかなかできることではない。
 医学生のころ、大阪大学に文学部を創設した澤瀉久敬(おもだか・ひさゆき)教授(フランス哲学専攻、1904年~1995年)の医学概論の講義で「医学の使命は病気を治すことではなく、病人を治すことである。生、老、病、死に悩む人間の伴侶たることこそ、医者たるものの使命である。医者は単なる科学者であってはならない」と教えられた。
 臨床の現場で壁にぶつかると、この澤瀉教授の言葉を思い出し、こう自問自答した。
 「患者との接し方はどうあるべきなのか」
 「病気を見るのではなく、人を見なくてはならない」
 「それなのに医師の仕事に慣れてくると、病気を見るようになってしまう」
 「これでいいのだろうか。本物の医師は違うはずだ」
 福沢諭吉の『学問のすゝめ』と『文明論之概略』が愛読書で、アカデミアに対しても「外に学問を広めるとともに内に自分を磨いてこそ真の学者だ」と説き、「自分の損得勘定から本当に大切な社会全体のことを論じてはならない」と訴えてきた。

■優しい心の持ち主
 医学・医療の取材を通じて知り合い、電話をかければ、いつでも対応してくれたし、お願いごとも何とかしてくれた。もちろん、医学・医療の質問にも明確に答えてくれた。こうした付き合いは10年を超えていたが、もっと前から親しくしてもらっていた気がしてならない。勝手に師匠と仰ぎ、新聞記者上がり(当初は新聞記者)の無作法な私とよく付き合ってくれたものだ、と思う。
 こんなこともあった。私が行きつけにしていた東京・東中野の日本酒バーで飲んだことがあったが、そこのマスターがすい臓がんを患ったことを伝えると、マスターの奥さんの良き相談相手になってくれた。優しい心の持ち主だった。
 4年前のことだが、慶応義塾大学で一般人対象のセミナー(「三田オープンカレッジ」)の講師を私が勤めていたときには、ゲストスピーチを頼むと、雨の降るなか宿泊先のホテルからタクシーを飛ばして駆け付けてくれた=写真。忘れられない思い出のひとつであり、あのときほど嬉しかったことはない。
 一度、「伝記を書いてほしい」と頼まれたことがあった。しかし、どう切ってストーリー性を出したらいいのか見当が付かず、そのままになってしまった。本人の人生をすべて聞いているわけではないし、知らないことの方が多い。あのときすぐに引き受けて取材を進めておくべきだった、と反省するばかりである。
 あれからあの青いイトトンボは、姿を消したままだ。門田先生が姿を変えて現れたのだろうか、などと考えてしまう。さようなら、門田守人先生。長い間付き合って下さり、本当にありがとうございました。

ー以上ー
         
◎慶大旧新聞研究所OB会によるWebマガジン「メッセージ@pen」の10月号(下記URL)から転載しました。
「葬送」 さようなら門田守人先生 わが心の師だった | Message@pen (message-at-pen.com)

下記のURLで直接アクセスもできます。

https://www.message-at-pen.com/?p=3072