日韓国交正常化と椎名悦三郎


2015-05-22 政治アナリスト  豊島典雄

はじめに

2015(平成27)年は日本と大韓民国との日韓国交正常化50周年である。しかし、1910(明治43)年の日韓併合、36年間に及ぶ日本の「韓国統治」という歴史もあり、「最も重要な隣国」(安倍首相)、引越しのできないお隣同士だが、相性が悪い。

「これは日本の三十六年間の植民地支配、それから終戦後における在日朝鮮人の行動に対する日本人の強い印象というような、さまざまな、普通の交渉に無い背景があったわけです。したがって、日韓交渉の初期の頃の双方の立場というものは、まとめるためにここまで譲ろうとか、向こうの立場も考えてというのではなくして、韓国から言えば、すべて日本が悪かったんだ。日本側はとんでもない。日韓併合は国際法だと有効だといわんばかりの態度、そういうところから発したんです」(前田利一・当時の外務省調査官、後に駐韓国大使)。

結局、日韓両国は14年に及ぶ交渉をへて戦後20年目の1965(昭和40)年に日韓基本条約を締結し国交正常化している。同時に4協定を締結している。

この交渉は、日韓併合条約等が無効になる時期、韓国の主権の及ぶ範囲、対日請求権、漁業問題、竹島問題もあり難航した。また、日韓両国内に反対勢力が強かった。韓国内の反日感情は極めて強い。日本では左翼陣営が「日韓条約は朝鮮の南北分裂を固定化し、朝鮮民族の悲願である南北統一を阻害する」として強く反対した。日韓の交渉当事者はそれぞれ国内に強い反対勢力を抱えていたのである。

 

日韓国交正常化成功の要因は

 

難産の日韓交渉だったが、1965年の日韓国交正常化成功の要因としては

① 北朝鮮の脅威に直面しながら、朝鮮戦争の被害からの復興と経済成長を企図する朴正熙政権が日本から資金を引き出すために国交正常化を強く欲していたという韓国側の事情。

②    米ソ冷戦下であり自由主義陣営の団結と韓国の安定を急ぐ米国による日韓の国交正常化を求める仲介、圧力。

③    韓国の朴正熙政権、日本の池田勇人―佐藤栄作内閣はともに強い指導力を保有する政権であった。

④    外相に椎名悦三郎、李東元という逸材を得た。

――ことがあげられる。

椎名悦三郎の存在

難交渉中の難交渉であった日韓国交正常化交渉を振り返ると椎名悦三郎(1891-1979年)の存在はひときわ大きい。

外務審議官としてこの交渉にかかわった牛場信彦は「日韓交渉がまとまったのは何といっても椎名外相がおられたからだったとつくづく思う。韓国の貴人にはああいう細長い顔をしている人が多く、向こうの人たちから多大な信用を得た。びっくりするくらい緻密な人で、問題点をよく心得ておられ、『ここはひとつ、大臣によろしく』と頼むと、ちゃんとやってくれる頼もしい人でもあった」(牛場信彦著・外交の瞬間)と評価している。

「記録 椎名悦三郎」の中で、日韓国交正常化交渉に携わった外務官僚は「正に将たる器」(柳谷謙介・当時のアジア課長代理)、「本当の経世家としての外交家だった。外交官ではなく外交家だった」(後宮虎郎・アジア局長)と高い評価を与えている。

 

今や近くて遠い関係に

 

現在、日韓両国は「近くて遠い」関係である。かっては自由主義陣営の仲間として唇歯輔車の関係にあった。今や、韓国が共産党一党独裁の中国と一体となって日本たたきをしているのである。

「共産党一党独裁の中国の習近平政権と共闘するかのような言動は、日本との価値共有とかけ離れている」(産経新聞の主張、2015年3月3日)。

韓国の日本たたきに日本国民の反韓国感情も著しく高まり、反韓、嫌韓本は軒並みベストセラーになっている。

2015年2月に、「必要以上に日本を刺激し批判することは控えなければならない」と朴正熙の盟友の金鐘泌元首相は語っている。金鐘泌はいわゆる従軍慰安婦問題についても言及。1965年当時、元慰安婦らは「帰国し配偶者との間に子供ができ必死に生きていた」と振り返った。その上で「(元慰安婦を)引きずり出し難題を作ってしまった。誰の発想か分からないが胸が痛む」と述べたという。この寒々とした冬のような現在の日韓関係を考えるときに、50年前の日韓国交正常化を振り返ることは意義深いと思う。

両国の指導者が大局観を持って国交正常化した原点に返る必要がある。この日韓交渉を当時の外務大臣・椎名悦三郎を中心に描写してみたい。

第一章     日韓戦略

 

       古来、わが国に対する軍事的脅威は大陸から朝鮮半島へとのびてくる。日本列島のわき腹に刺さるナイフの形にもたとえられる朝鮮半島であり、事実、古くは元寇、近代では朝鮮を支配しようとした清国、ロシアとわが国は干戈を交えている。大陸国家の半島支配はわが国には極めて脅威であり、それを排除しようとしたのが日清戦争(1894年~1895年)と日露戦争(1904年~1905年)である。その日露戦争の講和条約である「ポーツマス条約」で、ロシアは日本の韓国に対する優越的地位を承認した。

日本の韓国における指導、監理、保護は当時、世界最強の国家であった英国の認めるところでもあった(1905年の第二回日英同盟協約)。

結局、1910年の「韓国併合に関する条約」で日韓併合となった。

36年間に及ぶ日本の統治下でインフラの整備は促進され近代化していったが、一方で、抗日のテロ事件や軍隊が出動した万歳事件(3・1事件)などの民族独立運動もあった。後に韓国の初代大統領となる李承晩などは海外で民族独立運動を展開した。

日本が連合国に敗北した第二次世界大戦後の1948年8月15日に大韓民国の設立が宣言され、同年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。朝鮮半島に南北二つの国家が対立して存在することになった。

 

第二章     難航した国交正常化交渉

 

1950年6月、北朝鮮が南侵して朝鮮戦争が始まった。米国を中心とする国連軍が韓国を支援し、北朝鮮支援のために共産中国軍も参戦した。多くの犠牲者を出しながら、1953年7月27日、休戦協定が成立して終わった。

第2次世界大戦後、政府間で日韓会談が行われたのは1952年の第1次日韓正式会談(1952年2月15日から4月25日)が最初だった。これは前年、在日朝鮮人の国籍問題などを討議するため、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の斡旋で開催された日韓予備会談(1951年10月20日)を経てである。

 

第1次日韓会談

  日本は韓国に対する請求権(韓国で没収された日本の財産に対する請求権)と、韓国の対日請求権との相殺を提案した。これに対して、韓国は、日本の請求権の撤回を求め、韓国がこうむった「破壊と国民の犠牲」に対する賠償を要求した。

さらに1910(明治43)年に調印された日韓併合条約についても、合法とする日本と、武力で強要したもので無効とする韓国が激しく対立した。

当時の韓国大統領は李承晩であり、民族独立運動一筋の李は朝鮮戦争中に

「今、日本が攻めてくるなら、北朝鮮と手を握ってでも日本と戦う」と言うほどに徹底した反日主義者であった。

李承晩は第一次会談に先立つ一ヶ月前の1952年1月18日、突如として海洋主権宣言を設定した。広範な海域にいわゆる李ラインを設定し、日本漁船の立ち入りを禁止した。

この李ラインによって九州・中国地方の漁民は国交正常化までの13年間、漁場を追われ、苦しめられた。1953年から1956年に111隻の日本漁船を拿捕して、1537人の漁船乗組員を抑留して、日韓関係に対立ムードを醸していた。理不尽な韓国による銃撃で死者まで出ている。

こうした状況を憂慮した米国の仲介で日韓会談が持たれた。

李大統領は1953年1月15日、国連軍司令官クラーク大将の招きで来日した。首脳会談で、吉田茂首相が「韓国に虎がいますか」と尋ねたところ、李大統領が「加藤清正が全部とって帰ってしまったので、今じゃ一匹もいない」とか「今一匹だけ残っている」(それは自分だといわぬばかりに)といった伝説が残っている。(前田利一の「吉田さんと韓国」 親和第169号)

李大統領は離日に際し「私は吉田首相が日韓両国が隣国関係にあることの重要性を深く認識していることを知って喜びにたえない」「日韓会談の再開を歓迎すると吉田首相に伝えた」と語ったが、これは外交辞令で、李大統領の反日的態度はその後も変わらなかった。

第2次会談は1953年4月15日から開かれた。しかし、対日請求権、漁業問題で意見が対立して進まず自然休会となった。

 

久保田発言

第3次日韓会談は10月6日から開かれたが、1953年10月15日の会談での久保田発言に韓国側が強く反発し決裂してしまう。

「もし韓国併合36年間の賠償要求を出していれば、日本としては、総督政治のよかった面、例えば禿山が緑の山に変わった、鉄道の敷設、港湾の建設、米田が非常に殖えたことなどをあげて韓国側の要求と相殺したであろう」。

この久保田発言に、韓国側が「植民地支配は害だけ与えた」と猛反発し、以後5年間会談は中断した。

だが、当時、日本国内では、日本による韓国併合は「合法かつ正当」という認識が一般的で、久保田発言についても容認する声が強かった(2012年5月19日の読売新聞)。

結局、日本は久保田発言を撤回し、在韓日本人財産に対する請求権の放棄を約束して1958年4月に第4次会談にこぎ付けたが、1960年4月まで数回にわたって開かれたこの会談では見るべき成果がなかった。それは、膠着状態を続ける請求権問題等のほかに日韓両国の国内の混乱が要因となっていた。

日本ではいわゆる「1960年安保騒動」である。韓国では、1960年に選挙の不正をめぐって立ち上がった学生中心の革命によって強権政治を展開してきた李承晩政権が4月27日に崩壊した(四月革命)。

両国ともに交渉のテーブルに着く余裕がなかったのである。李に代わって7月に登場した張勉内閣は9ヶ月で崩壊した。

 

第三章     軍事革命で朴正熙登場

 

朴正熙・陸軍少将等の軍人による1961年5月16日の無血クーデター(軍事革命)で日韓交渉は急展開を見せる。

政治学者の李庭植は「李承晩にとって日本は主要な敵であったが、(朴正熙ら)若い指導者たちにとっては日本は一つのモデルであった」と言う。

朴の革命公約は「自立経済の達成」を大きなスローガンにしていた。

1961年6月に朴はパーティの席上で「日本人は過去を謝罪し、より以上の誠意で会談に臨むべきだ、などということは、今の時代には通用しない。昔のことは水に流して国交正常化するのが賢明だ」とさえ言っている。近年の韓国大統領にはない朴の大局観、決断と実行力は高い評価に値する。

当時、韓国の経済状態はどん底状態に近かった。為替レートは一挙に切り下げられ、貨幣の価値は半減した。さらに台風と干害で農業は大打撃を受け、飢餓に追い込まれた絶糧農家は全農家の25%、百万戸を超えたといわれる。

 

朴正熙の本音と覚悟

朴正熙の本音は韓国経済再生に日本からの金を引き出したいということ。夫人(陸英修)の実兄である陸宙修氏は朴正熙の心中を次のように解説している。

「大統領は、5・16軍事革命を起こしたときから、どんなことをしても日韓国交樹立をやり遂げなければならぬーーというハラを固めていました。

軍事革命のときから、大統領とはしばしば話し合ったものです。とにかく(革命の)目標は、北の脅威に対する軍事的側面と、韓国の経済復興――貧困の打開にあったわけです。

大統領はよくいっていたことですが、李承晩時代から、韓国は二つの敵をもっている。一つは前面の北朝鮮の共産主義、一つは国民の反日感情という対日敵対意識です。『両方に敵をもって、どこに韓国の立つ瀬があるか』という考えでした。

なによりも資金がいる。アメリカが助けてくれるといっても倍増してくれるわけではないし、あてにもできない。ところが日本からは交渉によって堂々と韓国が受け取るカネがあるではないか。それを反日感情とか、国辱とかいって日韓交渉をぶちこわしていることは大変な国家的損失だーというのが、あの人の常に思っていたことです」(記録 椎名悦三郎)。

私は陸氏とソウルでお茶をしながら日韓関係を話し合ったことがあったが、流暢な日本語を話す温厚な紳士であった。

後進国が経済成長を遂げるためには一時的に権力の集中が避けられない時期がある。朴の「開発独裁」はいつかは評価されるだろう。歴史は現在から過去を裁断するのではなく、その時代に身をおいて考察すべきである。

第四章     池田内閣(1960年~1964年)

日韓条約交渉が大きく前進

 

       1960年の安保騒動後に組閣した池田勇人内閣だが、日韓問題に本当に取り組もうと決意したのは1961年6月の訪米でケネディ大統領から示唆されたことが大きかった。

また、当時の駐日米国大使のライシャワーは、後に大使時代の最大の業績を問われ、「日韓関係の回復」を挙げている。米国の果たした役割も大きいのだ。

この時期ベトナム戦争は泥沼化の様相を見せ、米国対ソ連・中国の対立は深刻化していた。

米国にとって米日韓の連帯強化は重要な極東政策であり、それはアジアの平和に直接関係する最重要課題であった。日韓関係正常化はアジアの安定と平和に必要不可欠だった。

池田首相は、韓国政情の安定は、ただ経済の安定によってのみ図られるとの強い確信を持っていた。

米国のラスク国務長官が1961年11月に来日し、池田首相と会談した。

「南ベトナムは危険な状態にあり、韓国でつまずくようなことになればアメリカの威信にかかわる」「悪化する韓国経済の建て直しは第一次経済五カ年計画の成りゆきにかかっている。わけても対日請求権は五カ年計画の遂行と韓国経済再建に直接関係を持っている。早急に決めてほしい。それがないとアメリカの今後の対韓援助もきまらない」と日本による韓国支援を強く求めている。

こうした日米韓のあわただしい根回しを経て朴正熙が1961年11月11日に、国家最高会議議長の肩書きで来日した。

朴訪日は大成功であつた。請求権の処理方式について基本的合意をした。請求権の性格を日本側の主張に沿って明らかにした上で、韓国の経済再建五カ年計画に応じた経済協力を好条件で供与するというもの。

具体的には

①   請求権とは個々の韓国人が日本に対して持つ恩給、未払い賃金など中心とするもので賠償的なものでないこと。従ってその金額は韓国側の主張する何億ドルにはなり得ないことを韓国側が認めたこと。

②   請求権問題は事務的な資料に基づいて計算すべきで、つかみ金的に政治折衝で決めるべきでない、との日本側の立場が認められたこと。

③   請求権を厳密に絞るかわり、日本は韓国の経済再建五ヶ年計画に応じた経済協力を、韓国にきわめて有利な条件で供与すること。

―――といった三原則であった。

離日した朴は訪米し、米韓首脳会談が行われた。

池田ーラスク、池田―朴、朴―ケネディ会談によって日米韓の密接な関係が具体的に設定され、その象徴として日韓交渉は位置づけられた。

 

大平・金メモ

 

朴は交渉役にクーデターでともに決起した金鐘泌中央情報(KCIA)部長をあてた。

1962年11月に金鐘泌中央情報部長と大平正芳外相が会談し、対日請求権問題は、有償、無償合わせて5億ドル台で妥結―大平・金メモ(合意文書を交わした)。また、漁業問題でも両国農相会談で李承晩ラインを撤廃し、沿岸12カイリを韓国の漁業専管水域とし、その外側に共同規制区域を設け、日本は漁業経済協力を行うことでほぼ合意していた。

「後から振り返れば、大平・金会談は大きな節目で、交渉全体が妥結に向かう一番大きなタイミングだった」(柳谷謙介・当時の北東アジア課長代理、2012年5月19日の読売新聞)。

なぜ、椎名が外相に

 

1964年7月18日、第三次池田内閣の内閣改造で椎名は外相に就任する。東京五輪の3ヵ月前である。

「池田勇人と前尾繁三郎が日韓をにらんでひねり出したウルトラCだった椎名の外相就任は常識からすれば意表をつくものだった。椎名は戦前の商工省出身、通産なら専門だが外務はズブの素人同然である。

しかし、池田が椎名に求めたのは、単なる外交的知識や手腕ではなかった。それは一言でいうなら、国家的見地に立って考え判断できる決断力と行動力に満ちた政治力であった」(月刊自由民主編・日本の進路を決めた男たち)。

「前尾は大局的な判断力があり、ハラが座っていて度胸がある椎名を外相の適任と考えたが、世間も椎名本人も当時は外相が適任とは思ってもみなかった。前尾の話しを聞いた川島も『いくらなんでも無理だ』と難色を示したが、池田は『面白い人事だと了承した』(2012年8月26日の日本経済新聞)。

池田と前尾は盟友であり、また、灘尾弘吉、椎名、前尾の三人は「政界の三賢人」といわれる仲間だった。

その間の1963年には韓国内の激しい政争があり、朴の盟友の金鐘泌も中央を離れる。

朴は1963年12月に大統領に就任した。どんでん返しともいえるほどの激しい政権を繰り返しての就任だった。条約推進派の朴がその権力闘争に勝ち残り体制固めにために成功したことで、日韓交渉は急速に進むかに見えた。

しかし、1964年3月に、韓国の野党勢力は「対日低姿勢外交反対全国民闘争委員会」を結成し、対日請求権27億ドル、李ライン固守を叫んでいた。さらに、対日屈辱外交反対決起大会が開かれ、大規模なデモとなって爆発し、70日間にわたって全国で荒れ狂った。特に、李承晩政権を妥当した4.19を記念するデモは激しく警官隊とぶつかり、ソウルの街は市街戦の様相を呈した。

 韓国外相に36歳の李東元

 

1964年5月に崔斗善内閣が総辞職し、朴大統領は外務部長官(外相)の丁一権を首相に任命し、新内閣をスタートさせた。丁一権内閣は日韓妥結をその最大の政治目標に出発した。

しかし、「日韓突撃内閣」といわれるこの内閣には外相が不在であった。外相になり手がいなかったのだ。組閣から2ヵ月後に36歳の李東元が就任した。秘書室長の経験を持つ朴側近であった。しかし、この時期に外相になることは第二の李完用(日韓併合のときの韓国首相)になることを意味していた。売国奴といわれる。

池田内閣で椎名外相が異色だった以上に、李東元の外相就任は異色中の異色と評された。大統領に相談された李は「国のためにやりましょう」「多分これでわたしは李完用になるでしょう」と答えた。

当時の韓国にはこのように、国家のため、火中の栗をひろい、すすんで売国奴の汚名を甘受する勇気ある人物がいたのである。

喉頭部の癌の池田勇人は1964年の東京五輪を花道にして退陣した。同年11月に佐藤栄作が後継首相に就任した。佐藤首相は11月20日に所信表明演説を行ない、日韓交渉に一段と積極的に取り組む姿勢を明らかにした。椎名外相は訪韓の希望を明らかにした。

 

第五章      佐藤内閣登場

 

佐藤内閣の登場を韓国政府は大きな期待で迎えた。

第7次会談は1964年12月3日から再開することになった。

この会談で椎名は韓国からの正式な招待状を受け取った。椎名外相の訪韓が内定したことによって、第7次会談は、これまでになく熱を帯び、ぎりぎりまで双方の間で交渉が積み重ねられた。

問題は韓国の管轄権と日韓併合条約である。これらの問題は事務レベルではデッドロックに乗り上げていて、政治会談でけりを付ける以外にはなかった。

韓国側の主張は

①朝鮮全域に管轄権を持つ唯一の政府として認めること。

②日韓併合条約は当初から無効であること。

 

日本側は

①     韓国の管轄権は北朝鮮には及ばない。

②     日韓併合条約は終戦までは有効であり、終戦から無効になった。

椎名の韓国訪問は昭和40年2月17日であった。できれば日韓基本条約の仮調印まで持ち込みたいというのが、日韓双方の狙いであった。

2月17日、羽田周辺は訪韓阻止の全学連でも機動隊とも見合う険悪な空気の中、日航特別機で出発した。韓国でも「韓日交渉反対」「日本の韓国進出を許すな」と叫ぶデモ隊が街頭を練り歩いていた。

金浦空港のメーンマストに韓国機と並んで日の丸がへんぽんと翻った。これは戦後初めて掲げられた日本の国旗であった。しかし、ソウルの町には日韓交渉反対デモが渦巻いて、宿舎の朝鮮ホテル前はデモ隊でうずまっていた。

 

深く反省する

 

韓国の気候も人身も凍てついていた。日韓国交正常化交渉の鍵は反対する韓国世論をどう沈静化させるかだ。それほど日韓条約反対の世論は険悪であり、朴政権を苦しめていた。しかし、金浦空港での椎名の挨拶で空気は一変した。

「日韓両国は、古くから一衣帯水の隣国として、人の交流はもちろん文化的にも、経済的にも、深いつながりがありました。両国間の古い歴史の中に、不幸な期間があったことは、まことに遺憾でありまして、深く反省するものであります」という一節が盛り込まれた。

椎名の座右の銘は省亊である。物事を処理するに当たっては、些細で煩雑なことはなるべく切り捨てて、根幹を簡単明瞭につかむことだ。「まことに遺憾でありまして、深く反省するものであります」。この一言で韓国民の心をつかんだのである。当時の外務大臣秘書官の大森誠一氏も「極言するならば、日韓交渉を妥結に導いた要因を二つ挙げるとすれば、その一つは右の声明にあったといっても過言ではあるまい」と言っている。

この発言の背景を椎名は「それまでの日韓両国の間は多くの努力がなされながらうまく行かなかったのは、条約の内容そのものがどうこうというよりは、根本的には国民感情に問題があったからである」と「私の履歴書」で回想している。

李東元は後に「椎名さんという大物でなければ、ああいう決心はできなかったし、そして、あの一言が、しかも椎名先生の、落ち着いた、とつとつとしたステートメントは椎名先生の誠実さが溢れていましてね、韓国民の感情はすぐ収まったんですから……。

だから、わたしはあと日本に行って佐藤総理にいいました。日本人は韓国に36年間植民地政策をとり、あなたたちは鉄砲を持って韓国を圧迫したが、韓国国民の心を握ったことは一回も無かった。椎名さんは、百万の大軍も連れてこなかったし、鉄砲も持って来なかったのに、あの一言で彼は韓国民の心を握ってしまったんですよ………と」(記録 椎名悦三郎)と言っている。

椎名の器量 李の勇気

18、19両日の深夜にまで及ぶ2度の外相会談でも双方の主張は対立したままであった。新聞記者団の中からは、早くも交渉は決裂、仮調印不可能という悲観的な見方が強く、すでにその旨を本社に叩き込む社も出ていた。

問題は言うまでもなく

①     1910年の日韓併合条約など戦前の両国間の条約、いわゆる旧条約をどのような形で確認するか

②     北朝鮮の存在、特に韓国政府の管轄権の及ぶ範囲をどう規定するかであった。

明日は帰国というぎりぎりの場面になっても解決を見なかった。

解決策は国連決議195号の利用である。この決議は韓国を「朝鮮にある唯一の合法政府」と認めたもので、この規定は日韓双方にとって都合のいい玉虫色的解釈を可能にしていた。即ち、この決議は韓国が現実に支配している地域を明記していないのだ。従って、韓国側は「朝鮮半島を代表する」と主張できるし、日本側では「南半の限定的」とも主張できる。

いわゆる玉虫色である。お互いに自分に都合よく解釈できる。

椎名の決断は早い。料亭で李東元に

「今回交渉を妥結しないと、日韓交渉はさらに数年間遅れることになる。ボクの方はもうこれでいい。仮調印する権限は私に与えられている。問題はキミの方だ。ただちにキミの方で決断してもらいたい。そうすれば明日仮調印して帰国できる」と迫った。「いわば、椎名大臣は李東元さんをおどかして決断を求められたわけです」(前田利一外務省の調査官)。

 

朴の決断

 

李東元は「いや、大統領の了解を取らないとダメなんです」。夜中の12時を過ぎていた。李東元は青瓦台の大統領官邸に走って、そこから鎮海の軍艦にいる大統領に電話を入れた。

その時、李が感じたのは、朴大統領は、そういうそぶりを見せなかったが、非常に会談に成り行きを心配していて、この夜も李の電話を深夜まで待っていた。

大統領は李に、その文章を読め……と言い、李は電話口で読んだ。『どう思うか』と李に判断を聞いたから李が『これなら国民に説明できると思います』と答えたら、大統領は『椎名大臣はどう言っているか』」と。李が『椎名さんも日本の国会で説明がつくだろうといっている』と答えたら、『よし、やれ』つて決断した。朴は乱世の雄であり、果断である。

椎名はその晩のことを以下のように回想している。

「帰国前夜にお別れのパーティをやって、二次会の席に移ったとき、確か清雲閣という料亭だったが、李東元国務長官に言ったんだ。『私は仮調印のために、イニシャルする権利を持って来ている。わたしのほうはこれでいい、問題はキミのほうだ。キミのほうでイニシャルする決心がついたら今晩いくら遅れてもいいから電話をくれ』ってね。そしたら彼は困ったような顔をして『それは無理だ、大統領も総理も鎮海に行っており、今晩は二人共軍艦に泊まっている。どうしようもない』と言って、諦めた顔つきなんだ。

そこで私は『軍艦の中なら動くわけにもいくまい、それはなお都合がいい。軍用無線があるだろうから、それで了解とればいいじゃないか』と言い捨てて宿舎に帰ったのさ。そしたらやっこさん、やっとおみこしを上げたとみえて、午前一時ころ、オッケーの返事を持って来た。早速私は佐藤総理と外務次官、自民党幹事長らに電話を入れて『いよいよやるぞ』と通告したところ、佐藤はね『国会で問題にならないか、野党の攻撃はかわせるのか』と大変に心配するんだ。『そんなことは外務大臣のオレに任せておけ、心配ご無用だ』と突き放したが、何とまあ、信念の無いちっぽけな奴かと思ったよ」。

筆者は戦後最長の在任期間を誇る佐藤栄作さんの番記者をした経験があり、団十郎のような風貌と威圧感を覚えている。目を合わせると腹の底を見抜かれる恐怖心を抱く人もいた。その栄作さんの評価が低いのには驚いた。

この椎名と佐藤のやり取りは全部韓国政府に傍受されていたらしい。椎名は傍受されるのを百も承知の上で、韓国側に聞いてもらいたいことを長々としゃべったっていうから、これまた、尋常の肚芸ではなかった。このため、韓国政府首脳は、椎名の国交正常化への熱意に感動し、その後の椎名に対する敬意は不動のものとなったと、言われている。

 

 日韓基本条約仮調印

 

  日韓基本条約は40年2月20日に仮調印された。

①      外交、領事関係を開き大使を交換する。

②            1910年8月22日以前に両国間で締結された条約、協定 はもはや無効であることが確認される。

③  韓国政府は、国連総会決議第195号に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的政府であることが確認される。

④  両国は国際連合憲章の原則を指針とする。

⑤  通商協定、航空協定の締結交渉をできるだけ早く開始する

 

竹島については懸案事項として条約で取り決めることはしなかった。

宿舎に入るときには腐ったキャベツを投げつけられた椎名だが、帰国時には控えめながら沿道で手を振っている者もいた。

 

 請求権、経済協力協定

 

「これは十四年に及ぶ日韓交渉で初めて合意を見た画期的なものである。しかし、本当に難しい交渉が始まったのはそれからである。

具体的な協定を作っていくわけで、まず『請求権問題』でもめた。この韓国人の戦前における請求権というのは、金額がわからない。しかし、是非とも決着をつけなければならない問題であった。一方、経済協力は、幸い、『大平・金メモ』で無償3億ドル、有償2億ドルと総額が決まっていたので、大枠は動かなかったが、金利など細かい点では難航した」(外交の瞬間)。

結局、日韓請求権・経済協力協定では日本が無償3億ドル、有償2億ドル、民間融資3億ドルの経済協力をすることになった。当時の韓国の予算は3.5億ドル、日本の外貨準備高は18億ドルだったのだからその巨額さが分かろうというものだ。

この「日韓請求権並びに経済協力協定」で、対日請求権問題は「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と明記した。

さらに合意議事録にも、日韓交渉で韓国側が提出していた対日請求権要綱に関し、韓国政府から日本政府へ「いかなる主張もなしえない」と明記された。朴政権は国民の批判を恐れて、これを公表しなかった。

「請求権問題を日本からの経済協力という形で決着させた朴政権にとって、請求権を放棄し、その後一切請求する法的根拠を失ったことは、国民に説明しづらかったものと見られる」(2012年5月26日の読売新聞)。

 

椎名が取った一札    

 

世界週報の昭和54年11月6日号によると次のような秘話もあったという。

「ところが、この韓国側請求権放棄の一札は日本側に取り極めて重要で、これがないと多額の経済協力をした上、なお韓国側の対日請求権が残存するような結果になる危険があった。椎名大臣は妥結要綱のイニシアルを数時間後に控えた四月三日の早朝、断固としてこのままではイニシアル取りやめもやむなしとの裁断をされ、この旨を韓国側に伝達した。ここにおいて韓国側も、本件に対して日本側が置いている重要性と日本側の決意の強固なることを感得して、問題の一札に合意し、かくて事実、妥結要綱のイニシアルの式の開始を三十分遅らせて右一札の案文に合意を得たのである」(後宮当時の外務省アジア局長)。椎名の裁断に敬意を表したい。

他の三協定は、

①日韓両国が排他的管轄権を行使する水域を沿岸から12カイリとすることなどを定めた漁業権協定。

②   終戦以前から日本に居住している韓国人と、その直系卑属で1945年8月16日以降協定発行5年以内に日本で生まれた者に永住権を与えることを定めた在日韓国民の法的地位協定。

③日本が韓国に陶磁器などを引き渡すことを決めた文化財・文化協力協定。

1965年4月3日にこれらの諸協定は仮調印され、日韓基本条約とともに、6月22日に正式調印され、12月18日批准書交換式ソウルで行なわれた。

 

終わりに

 

椎名のメモには「戦争と条約―。戦争は勝負である。条約は互譲である。故に、今度の条約締結で勝ったということはおかしいことだ」とある。

椎名と李東元の互譲で日韓国交正常化されたが、現在の日韓関係はま

ことに遺憾な状態にある。

今日の日韓両国は首脳会談も開かれていない冷たい関係になっている。朝鮮戦争で韓国を救った米国も朴槿恵政権の異常な言動を苦々しく見つめている。

日韓国交正常化で引き出した日本資金を使って、急速な復興と経済成長を成し遂げ「漢江の奇跡」を実現した泉下の朴正熙の心情はいかがであろうか。

また、請求権は完全かつ最終的に解決されたにもかかわらず、個別の懸案を蒸し返すのは韓国民の権威と品位にかかわるのではないか。韓国に求められるのは、「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である」(全斗煥大統領、1981年の光復節式典)という姿勢である。

李東元・元外相は1985年6月19日の日本経済新聞で「国家と国家の関係正常化から二十年。今度は国民と国民の心の正常化が出来ることを望んでいる」と語っている。しかし、近年の韓国大統領の執拗な反日言動もあり、関係は悪くなり、心の正常化の見通しはつかない今日である。

残念ながら、日韓関係を難しくしているのは韓国人の過剰な怨念である。「近くて遠い国」から「近くて近い国」になるには、韓国側に怨念を乗り越え、国際常識にのっとった努力が待たれる。

-以上-

 

参考文献

①、「日本外交史ハンドブック」(増田弘・木村昌人編著、有信堂)

②、日本の進路を決めた男たち(月刊・自由民主編集部、太陽企画出版)

③、記録 椎名悦三郎(椎名悦三郎追悼録刊行会)

④、語られなかった戦後日本外交(池井優、慶應義塾大学出版)

⑤、冷汗三斗の日韓正常化(李東元・元韓国外相、1985年6月19日の日本経済新聞社)

⑥、「政客列伝 『飄逸とした仕事師』椎名悦三郎(4)」(2012年8月26日の日本経済新聞)

⑦、「昭和時代 2部 戦後転換期」(読売新聞、2012年5月19日、26日)

⑧、吉田政権・2616日 下(永野信利、行研)

⑨、戦後日本外交史(入江通雅、嵯峨野書院)

⑩、「日本議会史録Ⅰ」(内田健三他、第一法規)

⑪、「歴代自民党幹事長総覧」(豊島典雄ゼミナール編・富士社会教育センター)

⑫、朴大統領にも苦言「空気なぜ読めない」(2015年2月26日の産経新聞)

⑬、「国会百年」(毎日新聞政治部、行研)

⑭、外交の瞬間(牛場信彦、日本経済新聞社)

⑮、韓国重鎮が日韓関係で嘆き節「昔はよく分かり合えた」(共同通信2015年2月24日)