憲法改正こそが国民の責務― まず自衛隊と自衛隊員に市民権と誇りを共有へ


 

2018-05-07(平成30年)元・文部科学大臣秘書官 鳥居徹夫

 

◆生命・自由及び幸福追求権は国民の権利。

立法その他の国政の上で最大の尊重が必要

 

毎年5月3日の憲法記念日になると、左翼勢力は出番が来たと言わんばかりに「9条守れ」と騒々しくなる。日本の国を守ることや自衛権の発動について、憲法上は全く問題がないにも関わらず、歪んだ解釈を絶叫しているのが左翼勢力である。

左翼勢力や一部野党は、憲法改正を主張する勢力が、悪魔か天敵のように映るのでろうか。

憲法に、基本的人権の尊重が謳われているにもかかわらず、左翼勢力は目の色をかえて憎悪感情をむき出しにする。

制服自衛官にもその家族に対しても、いじめの標的とすることに快感を覚えるのではないだろうか。自分たちと考えが異なる他者にも当然、人権があることが理解できないようで、逆に差別・排除意識を感じられる。

憲法13条に「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要」とする国民の権利について、「生命、自由及び幸福追求」と明記されている。そのために自衛隊をはじめ、警察官・消防士・海上保安官が日夜任務に励んでいる。国民の生命、自由及び幸福追求のため日夜頑張っている自衛隊と自衛隊員に、憲法上に市民権を与え、誇りをもって国民の負担に応えることは、独立国日本として当然である。

憲法13条は「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」としている。

当然のこととして、国民の生命、自由、安全などは、「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」のであるから、憲法9条2項についても、その趣旨を踏まえ、自衛権が前提である。

国連憲章51条は、このような集団的自衛権を個別的自衛権とともに、加盟各国が有する「固有の権利」であると定めている。

ちなみに、集団的自衛権に関する「武力行使の新3要件」の一つに、「密接な関係にある他国への武力攻撃が発生し、日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」として、この憲法第13条の条文が引用され例示されている。

日本国憲法は、自衛権の行使を否定していない。個別的であれ集団的であれ自衛権の行使は、憲法解釈上の問題ではなくて、政策判断上の問題である。

ところが自衛隊と自衛隊員は、憲法解釈上は問題がなくとも、左翼マスコミの卑劣な言動により、肩身の狭い思いをしている。

また学校という閉鎖社会では、左翼教師が自衛隊は憲法違反と一方的な解釈を展開し、自衛隊員の子どもたちに肩身の狭い思いをさせている。

これは、言うまでもなく人権侵害なのである。

日本には、憲法学者と称する人たちがいるが、その多くが自衛隊違憲論をわめきたて、自衛官と自衛隊へのヘイトスピーチを繰り返している。

 

◆軍事を正面から論ぜよ。抑止力こそ安全保障の基本

 

第2次大戦後の東西冷戦から、その終結とソ連の崩壊まで、日本では長期間にわたり「平和と民主主義」が、呪文のように唱えられてきた。ところが「平和」とは何であるかについて、単に戦火が及ばないかのような単細胞的な思考が、当時から今日にいたるまで国民風潮を支配していた。

日本の義務教育では、抑止力や同盟といった、安全保障の初歩的知識さえ教えていない。軍事を正面から論ずることを忌避する風潮が蔓延している。

外交とは、血を流さない戦争であり、パワー・軍事力なしでは相手から譲歩を引き出せないことは、「世界の常識、日本の非常識」である。

昭和48(1973)年にノーベル平和賞を受賞したヘンリー・キッシンジャーは、その著『ホワイトハウス・イヤーズ』(邦訳で『キッシンジャー秘録』全5巻、小学館刊)で、次にように指摘する。

「弱ければ必ず侵略を誘い、無力であれば、結局は自国の政策を放棄させられる」

「力がなければ、もっと崇高な目的でさえ、他国の独善行為によって、押しつぶされてしまう危険があることは、事実なのである」

同著は「外交技術というものは、軍事力を補強することができても、軍事力の身代わりをつとめることは決してできなかった」「実際には、力の均衡こそが、平和の前提条件をなしていたのである」とも指摘した。(いずれも『キッシンジャー秘録』第1巻257ページ)

 

◆安全保障論議と意識の底上げをはかろう 

 

外交に正義や道理は、全く無力なのである。つまりパワー・軍事力なしでは相手から譲歩を引き出せない。この当たり前の国際常識に向き合うことである。

平成26(2014)年11月に、大量の中国漁船が小笠原沖で赤サンゴを違法採取した。外務省は退去を求めたが効果がなかった。中国当局は、口先では漁船を取り締まる、と言いながら見て見ぬふりであった。中国漁船が退去したのは、赤サンゴを根こそぎ取り尽くし、海中が荒れつくされた後で、漁具が放置されたままであったことは、記憶に新しい。

つまり「歴史を通じて、国家の政治的影響力の大小は、およそ、その国の軍事力の程度に比例してきた」(同著)ことは、国際社会の「暴力の海」において否定しようがないのである。

外交とは、クラウゼヴィッツの言葉を借りるまでもなく、血を流さない戦争である。

憲法改正が実現すれば、自称憲法学者の自衛隊違憲論に終止符を打つことができ、日本全体の安全保障論議と意識の底上げが期待できる。国の大切な役割として防衛がある。防衛力の活用は平和と安全の維持のために常時活用できる体制の構築が必要とされる。

必要なら仲間の国同士で守り合う。これが世界の常識なのである。

繰り返すが、自衛隊と自衛隊員に、憲法上に市民権を与え、誇りをもって国民の負担に応えることは、独立国日本として当然である。

まさしく憲法改正こそが、国民の責務である。

 

—以上—