御巣鷹40年 なぜ事故調は過ちを犯したのか


2025-6-3(令和7年)木村良一(ジャーナリスト・作家、元産経新聞論説委員)

■航空史上最悪

 この夏、あの御巣鷹山の事故から40年になる。40年前の8月、日本航空のジャンボ機が墜落して520人が亡くなった。助かったのは女性4人だけだった。単独機でこれほどの死者数を出した航空事故は世界に類がなく、航空史上最悪の事故として記録されている。

 事故をあらためて取材し、問題点を浮き彫りにしようと、昨年6月30日に『日航・松尾ファイル 日本航空はジャンボ機墜落事故の加害者なのか』(徳間書店)を上梓した。この拙著を書くための数年間に渡る取材の中で驚かされかつ大きなニュースだと感じたのが、当時の運輸省航空事故調査委員会(事故調)の歪(ゆが)んだ調査だった。

 事故はどのようにして起きたのか。1985(昭和60)年8月12日午後6時12分、日航123便は乗客乗員524人を乗せ、羽田空港を離陸し、その12分後に突然ドーンという大きな音を上げ、操縦不能となった。機長たちは何が起きたか分からないまま、32分間の迷走飛行を強いられた末、午後6時56分過ぎ、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落した。

 大きな音は後部圧力隔壁が破断した音だった。与圧された客室と機体尾部の非与圧空間とを仕切っているのがこの隔壁だ。客室内の与圧空気が隔壁の裂け目から一気に噴き出し、垂直尾翼を内側から吹き飛ばすとともに機体をコントロールする油圧系統を破壊し、墜落した。

■歪んだ報告書

 墜落事故の7年前(1978年6月2日)、事故機は大阪国際空港(伊丹空港)で着陸時にしりもち事故を起こし、機体尾部を破損した。修理を日航は機体を製造したアメリカのボーイング社に任せた。しかし、後部圧力隔壁の修理でミスを犯し、隔壁の強度が落ち、隔壁は飛行を繰り返すうちに金属疲労から亀裂が生じ、飛行中に破断した。

 以上が、事故調が解明した事故の経緯と原因であるが、ここまでは極めて科学的に分析され、納得がいく内容である。

 しかし、事故調は肝心なところで過ちを犯した。日航社内で事故を調べていた取締役(技術・整備担当)の松尾芳郎氏の説明を無視して調査報告書をまとめ上げた。その結果、調査報告書は歪んでしまった。この問題は拙著『日航・松尾ファイル』の第5章の「21 亀裂の発見確率」と「22 事故調の権威」に詳述してある。

 松尾氏は今年9月に95歳になるが、航空エンジニア出身で事故発生時は54歳の取締役整備本部副本部長で、日航社内の事故調査の最高責任者だった。しりもち事故のときには技術部長として修理に深く関わった。事故を起こした機体やジャンボ機、ボーイング社について詳しかった。事故調査報告書が公表されると、松尾氏は業務上過失致死傷の罪に問われ、日航、運輸省、ボーイング社の関係者とともに前橋地検に書類送検される。しかし、結果は全員の不起訴(1989年11月)で終わっている。

 ちなみに松尾氏の父親は、航空保安庁の初代長官や日航の2代目社長、5代目会長を歴任し、「日本の航空業界の父」として知られる松尾静磨氏(1903年2月~1972年12月、享年69歳)である。

■ミスリード

 事故調が調査報告書を歪めたことで、警察と検察の捜査を大きくミスリードすることになり、松尾氏ら日航、運輸省の関係者らに対する過酷な取り調べが行われ、自殺者まで出す。

 警察と検察は業務上過失致死傷罪という刑事立件にこだわり、やっきになった。群馬県警が取り調べを始める前にボーイング社は「事故の原因は自社の修理ミスにある」と認めていた。しかし、群馬県警と前橋、東京の両地検は「日航が修理中及び修理終了直後の領収検査で修理ミスを見逃した」「その後の定期検査でも修理ミスによって発生する亀裂を見落とした」と判断して取り調べを続けた。

 群馬県警の取り調べでは、任意の取り調べにもかかわらず、殺人事件の容疑者のように何度も怒鳴られ、刑事責任を容認するよう強要された。取調官に「警察をなめるな」「俺の言うことが分からないのか」「逮捕勾留しての取り調べもある」と脅かされた。人権を無視した理不尽な取り調べだった。

 繰り返すが、捜査のたたき台にされたのが航空事故調査委員会の事故調査報告書だった。だが、その報告書の一部に誤りがあった。その誤りに対し、松尾氏は「修理ミスや亀裂は領収検査や点検・整備で発見できない」などと訂正を求めた。だが、事故調は松尾氏の訂正要求を無視し、調査報告書を訂正しなかった。それゆえ、警察や検察は、ボーイング社だけでなく日航側にも刑事責任があると判断したのである。事故調が警察と検察の捜査をミスリードしたことになる。いまからでも遅くはない。事故調はミスリードを認め、過ちを正し、真相を語るべきである。

■中曽根政権の思惑

 それではなぜ事故調は過ちを犯したのか。墜落事故当時の首相は中曽根康弘氏(1918年5月~2019年11月、享年101歳)だった。中曽根氏は、1982年11月に第1次中曽根内閣を成立させると、強固な日米関係を築き上げようと、翌年すぐに渡米し、日米首脳会談(1983年1月18日~19日)で「日本とアメリカは運命共同体である」と強調する。このときのアメリカの大統領がロナルド・ウィルソン・レーガン(1911年2月6日~2004年6月5日、享年93歳)で、2人は「ロン、ヤス」とニックネームで呼び合う親密な関係を作る。

 そこに墜落事故が起き、原因がボーイング社の修理ミスと判明する。松尾氏は社長の高木養根(やすもと)氏にボーイング社を訴えるよう求めたが、日航は提訴しなかった。中曽根氏がそうさせたのか、あるいは高木氏が忖度したのかは不明だが、日航がアメリカを代表するボーイング社を提訴すれば、中曽根氏が構築した日米関係に大きなひびが入ることは間違いなかった。

 当時、事故調は運輸省内の一部の組織に過ぎなかった。いまの国土交通省外局の運輸安全委員会とは違い、独立性に欠けていた。政権の圧力を受けやすかった。事故調が松尾氏の訂正要求を無視した行為の根底にも当時の中曽根政権の思惑が透けて見える。つまり、「日航の点検・整備も不十分だった」と日航側に事故の責任の一端を負わせようとする圧力が「中曽根氏→運輸相→事故調の委員長」と働いた可能性がある。

 事実、松尾氏によると、事故調が松尾氏に意見を求めるに当たり、委員長1人が松尾氏ら日航側と会って話を聞いていた。他の委員や調査官はいなかった。1人の方が松尾氏の訂正要求を跳ね付けるのに都合が良かったのだろう。事故調は松尾氏の要求を無視し、調査を歪めてしまった。こう考えて行くと、事故調は日米関係を重視する中曽根政権の思惑によって過ちを犯したことになる。

―以上―

◎慶大旧新聞研究所OB会によるWebマガジン「メッセージ@pen」の2025年6月号(下記URL)から転載しました。

御巣鷹40年 なぜ事故調は過ちを犯したのか | Message@pen


焼け焦げた日航123便の主翼=1985年8月13日、御巣鷹の尾根(提供・産経新聞)