オシュコシュ2015航空ショーのトピックス (その2)


2015-07-29 松尾芳郎

 

B-52H戦略爆撃機、初のオシュコシュ地上展示

B-52H飛来

図9:(USAF 307th Bomb Wing Public Affairs)米空軍の戦略爆撃部隊の中核として50年以上使われているボーイングB-52H型爆撃機がオシュコシュ展示場の中心に姿を見せた。B-52のオシュコシュでの地上展示はこれが初めてとなる。

 

この機体は、バークスデイル空軍基地(Barksdale AFB, Louisiana)の第307爆撃航空団第93爆撃飛行隊に所属し、EAA Venture期間中は会場の中心にあるボーイング・プラザに駐機し一般に公開された。

B-52は、1954年に空軍に配備が始まっているので今年は就役60周年になる。B-52は合計で744機が作られ、配備以来絶えず近代化改修が行われ現在はB-52H型となっている。B-52Hは102機が製造され、今もその大半がバークスデイルとミノット(Minot, N. Dakota)の両基地で任務についている。

B-52HのエンジンはP&W製TF33-P3ターボファン推力17,000 lbsを8基搭載、巡航速度840km/hr、最大離陸重量220トン、32トンの各種爆弾を携行し、どこへでも出撃できる能力を持つ。

空中給油のおかげでB-52の航続距離は伸び、今や乗員の体力限界で制限されることとなった。1996年には、バークスデイル基地を飛び立った乗員5名のB-52はイラク空爆を行い、往復16,000マイルを34時間かけて飛行し、ミッションを達成している。

蛇足だが、1964年1月10日、ウイチタを離陸しコロラド州山岳地帯上空で乱気流の遭遇、垂直尾翼を失って飛び続け、アーカンサス州ブリスビル空軍基地に無事着陸したB-52は、 B-52H型で機体番号は61-0023であった。

前掲の第307爆撃航空団は1942年に陸軍航空隊爆撃部隊として創設され、B-17、B-24、B-29などを使い対日戦に参加した。現在は3個飛行隊編成で合計20機のB-52Hを運用している。そのなかの第93爆撃飛行隊の歴史はもっと古く第1時世界大戦当時の1917年に遡る。

 

デモ飛行を行った第二次大戦の復元機

オシュコシュ航空ショーでは、今年も第二次大戦で活躍した軍用機を復元した機体のデモ飛行が行われた。その幾つかを紹介しよう。

TBM雷撃機

図10:(John Morris/Aviation Week)ミッドウエイ海戦当時の姿に復元されたグラマン(Grumman) TBM-3Eアベンジャー(Avenger) N7226C雷撃・爆撃両用機。ミッドウエイ海戦で初めて実戦に参加、陸上基地から6機が魚雷を携行し出撃したが、日本側の迎撃で5機が撃墜されている。残りの1機は被弾損傷を受け後席の銃手が戦死したものの基地に帰還した。しかしこの攻撃で日本空母群上空を警戒中の零戦隊の注意を引きつけ、結果的に米急降下爆撃隊の攻撃を成功に導いた。

その後グラマンはF6F戦闘機の生産に全力を挙げるため、TBMアベンジャーとF4Fの生産はゼネラルモータース(自動車メーカーGM)に移管され、ほとんどはGM製となり、およそ9,800機が作られた。エンジンはライト(Wright)R-2600 Twin Cyclone空冷星型1,900馬力で、最大離陸重量8トン、魚雷/爆弾搭載量は1トンの当時としては大型機。

P-40戦闘機

図11:(John Morris/Aviation Week)オシュコシュに到着したカーチス(Curtiss) P-40Kワーホーク(Warhawk) N401WH。この飛行機は1943年9月にロシア西部フィンランドに近いコラ(Kola)半島のムルマンスク(Murmansk)上空で4機のドイツ空軍のメッサーシュミットBf 109戦闘機と戦い、脚を上げたまま不時着した。そのまま放置されていたが、1993年に現地から回収され米国に運ばれ2006年5月に復元、再び飛行できるようになった。

P-40は1938年に初飛行、米陸軍の主力機として対日及び対独戦を戦い、大戦が終るまで使われ、13,700機ほど作られた。英空軍およびソビエト空軍も使っていた。P-40BおよびP-40CはTomahawkと呼ばれる。エンジンはアリソン(Allison) V-1710水冷12気筒1,100馬力を積んでいた。

零戦、最後の侍

図12:(John Morris/Aviation Week)この零戦は、テキサス航空博物館(Texas Flying Legends Museum)が所有する“最後の侍(The Last Samurai)”と名付けられた機体で、中島飛行機が製造したA6M2 21型である。世界中で飛行可能な零戦はわずか4機で、これはその一つ。エンジンは、原型機が中島飛行機製の”栄”1100馬力を装備していたのに対し、復元機はDC-3型機などが使っていたP&W製のR-1830 Twin Wasp1,200馬力に交換されている。

本機は、1960年代末に南太平洋ソロモン群島のブーゲンビル島南端にある小さな島“バラレ島(Island of Balalae)”のジャングルで発見、回収され、Blayd Co.により日米のベテラン技術者の手で上図のように復元された。

この”バラレ島“は我々が記憶に止めおくべき地名である。すなわち;—

戦時中"バラレ島“には、シンガポールで捕虜となった英軍兵士の手で飛行場か建設され、海軍第251航空隊の基地として使われていた。87機撃墜の記録を持つ日本海軍のエース西澤広義中尉もここから零戦で飛び立ち奮戦していた。

もう一つは、1943年4月18日に山本五十六連合艦隊司令長官が“バラレ島”を訪問すべく飛行中に、ブーゲンビル島ブイン(Buin, Bougainville Island)上空で撃墜され戦死したことである。長官一行は2機の一式陸攻に分乗、零戦6機に守られてラバウルを出発、基地に展開する将兵を激励すべくに島に向かった。しかし行動が米軍に察知されP-38戦闘機16機の攻撃を受け撃墜された。

周知のように零戦は三菱航空機が開発、生産を始めた機体だが、途中から中島飛行機でも生産されるようになり、終戦までに合計で1万機が作られたがその60%以上は中島製であった。

Me109スペイン

図13:(EAA)「軍用機通り(Warbird Arrey ) 」に展示してあるメッサーシュミット(Messerschmitt) Bf109戦闘機は、オシュコシュ航空ショーではあまり珍しくもない。しかしこの機体は、大戦中スペインの「イスパノ・アビアシオン(Hispano Aviacion)」が、原型であるドイツのMe109G-2型機をライセンス生産した”Hispano Buchon(スペインの鳩)”と呼ぶ「イスパノ(Hispano) HA-1112型」である。エンジンは「ダイムラー・ベンツ(Daimler-Benz) 605A」1,455馬力から「ロールスロイス・マーリン(Merlin) 500-45」1,600馬力に換装されている。240機ほど作られスペイン空軍で1965年末まで使われていた。これはその中の1機で映画”Battle of Britain”で主役として使われた。エンジンとその装着部分以外は忠実に再現されていて、今は全米試作機協会博物館(EAA Museum)が保管している。1965年に映画出演して以来飛んでおらず、製造後の飛行時間はわずか92時間である。

原型のメッサーシュミット(Messerschmitt) Bf109戦闘機は、1937年に配備開始、1945年5月の敗戦までに約34,000機が作られ、ドイツ空軍の主柱として西部戦線、東部戦線、アフリカ戦線で活躍した。戦後もスイス、フィンランド、ルーマニア、スペイン等の空軍で10年近く使われてきた。記録によると日本でも1941年に数機を購入し、評価試験したと云う。

B-25爆撃機

図14:(John Morris/Aviation Week) テキサス航空博物館(Texas Flying Legends Museum)が所有する飛行可能なB-25ミッチェル(Mitchell)爆撃機。米空軍の創始者William Billy Mitchell大将の名が付けられた中型僕撃機である。1万機近くが作られ、大戦中は各地の戦線で戦い、戦後も40年にわたり使われた。16機のB-25が空母ホーネットから発艦し初の東京を含む本土空襲(1942-04-18)を行ったことで知られている。極めて頑丈で、ある機体は300回出撃し、その間胴体着陸を6回経験し、パッチ当て修理は400箇所に達し、なお飛行していたと云う。

米国以外に英空軍で700機以上、カナダ空軍で160機以上、中国空軍で130機、ソビエト空軍では860機が使われた。

エンジンはライト(Wright)製R-2600 Twin Cyclone空冷1,700馬力2基、最大離陸重量16トン、爆弾搭載量は1.6トン。

 

(以下その3に続く)