航空輸送70年間における安全性向上の歩み-(その2)


 2016-02-20(平成28年) 松尾芳郎

 4. 飛行の仕易さの追求(Making Airplanes Easier to Fly)

707-138B 

図4:(Wikipedia)2007年パリ航空ショウで披露されたカンタス航空ロゴ入りのボーイング707。本機はJohn Travolta氏が所有。

ボーイングは先の大戦中B-17やB-29爆撃機を、戦後ジェット機時代が始まるとB-47、B-52爆撃機を生産した。これに伴い、空中給油用としてB-29を改造したKC-97タンカーを大量(800機)に製造した。民間機を検討していた同社は、B-47を基にして、かつ、KC-97の後継として使え、また旅客機の原型ともなる「モデル367-80」、通称「ダッシュ80」を開発した(1954年)。エンジンは軍用のP&W J57、民間型のJT3C。これを米空軍はKC-135給油機として採用、60年以上経った今でも600機ほど使っている。民間用として「ダッシュ80」の胴体の幅を40cm拡げ、通路を含み4席配置ができる148 inch(3.76 m)とし、ダグラスDC-8に競争力を持たしたのが「707」である。「707」は1958-79年で改良が重ねられながら約1,000機が作られた。基本であるB-47爆撃機に比べ低速性能はずっと改善されたが、フライト・コントロールはケーブルを使うマニュアル式で、気象条件の悪い時の操縦にはかなり苦労があった。

 

初期のジェット旅客機では、操縦システムには新旧の装備が入り混じっていて、不便を感じながら操縦せざるを得なかった。ベストセラーだったボーイング707型機の操縦系統は、トリムタブとサーボタブを使う人力操縦になっていて、これに油圧で駆動するスポイラーと可変迎角式水平尾翼を使っていた。

英国の航空当局はボーイングに「方向舵にジャイロでコントロールするブースター、つまり“ヨー・ダンパー(yaw dumper)”を取付ける」ことを要求した。これは“ロール(roll)とヨー(yaw)を繰り返すダッチ・ロール現象”を防ぐためである。

当時は、乱気流の中を飛行中に誤って機体を高速急降下に入れたり、悪天候下で着陸進入する際に、制御不能に陥り事故になったりするケースが頻繁に起きていた。

707に続いて現れた727でも、着陸進入時に不注意で速度とパワーの減少を見過ごすと、直ぐに回復不能な高い降下率に陥る危険性があり、米国で数件の事例があった。全日空727型機が羽田に着陸時、東京湾に墜落(死亡133人)した事故(1966-02-04)は、第3エンジンの脱落が原因と報告されているが、米側は前述の727の操縦特性からパイロットミスと主張している。

同時期に作られた英国のBAC 1-11型機とデハビランド(de Havilland)社トライデント(Trident)型機は、共に“T”型尾翼で水平尾翼が垂直尾翼の上にあり、尾部にエンジンを取付けた形式だった。これには失速防止のため迎角を抑える「ステイック・プッシャー(stick pushers)」を備えていた。”T”型尾翼形式の機体では、迎角が大きくなると、尾翼が主翼の後流に入り、回復不能の失速「デイープ・ストール(deep stall)」を起こす。これはその防止策である。

1964年に英国は大型旅客機BAC VC10を完成したが、これには民間機で初の電動油圧アクチュエーター(electrohydraulic actuator)を装備し、完全な冗長性を持つ動力操縦システムを採用した機体であった。続いて出現した第一世代の広胴型機、ボーイング747、ダグラスDC-10、ロッキード・トライスターL-1011などは、操縦系統を冗長性の高い多重(4重)油圧システムに改め、安全性を高めた。

A350のEHA

図5:(Airbus)図のA350 XWB機は、操縦システムの広範囲に電動式油圧アクチュエーター(EHA)を採用した最初の民間機である。“EHA”は”Electrohydorostatic Actuator”とも呼ばれ、電動モーター、油圧ポンプ、駆動軸を一つのユニットに組み込み、電気信号で動かすアクチュエーターである。従って”power by wire”とも呼ばれる。従来の油圧アクチュエーターは、油圧ポンプで加圧した作動油を長いパイプを通し舵面取付けのアクチュエーターに送り舵面を動かしていた。

EHA

図6:(Airbus / Moog)モーグ(Moog)製のEHAは出力50 hpで1980年代以降の”電動化の進んだ飛行機(all-electric airplane”の操縦系統に使われている。利点は、軽いこと、それに配管がないのでスペースを取らないことである。787、A350 XWB、などの旅客機、さらにはF-35ライトニングII戦闘攻撃機では推力偏向ペダル駆動にも使われている。

 

5. シミュレーター/パイロット訓練の向上(Training Better Pilots)

 

ニューヨークでオルガンなどの楽器を作っていたEd Link氏は、1930年代にパイロット訓練用の装置を作り始めた。これが「リンク・トレーナー(Link trainer)」で、計器の使い方の訓練用として、第二次大戦中は敵味方を問わず50万人以上のパイロットの養成に使われた。

しかし、民間機がますます複雑化、高速化し、少しの間違いも許されないようになるに従い、エアラインは機種別、エンジン別、さらに油圧系統、電気系統を正確に再現する“模擬訓練装置”「シミュレーター」を求めるようになった。当時の技術的先駆者であったパン・アメリカン航空(PAA) は、1948年にボーイング377ストラトクルーザー(B-29爆撃機の旅客機改造型機)の操縦訓練に使うシミュレーターをカーチス・ライト社に発注している。

英国ではケーブル・テレビ業者だったレデイフージョン(Rediffusion)が、1958年にBOACからコメット機用のピッチ・コントロールだけできるシミュレーターを受注、製作した。レデイフージョン社は1970年代になるとコクピット全体が動く6軸モーション型シミュレーターを開発し、中程度以上の規模の航空会社に納めるようになった。この方式は後に業界の標準仕様となった。シミュレーターを使った訓練は急速に普及し、特に非常事態への対処やシステム故障時の訓練に使われるようになった。

1970年代の終わり頃までは、シミュレーターの目視装置は、空港とその付近の地形を模した小型の立体パネルを用意し、これを機体の動きと同期して動くテレビカメラで写し、その画像をパイロット前面のスクリーンに表示する方式だった。当時の日本航空の羽田訓練施設でもこの方式の目視装置を使っていたのを思い出す。

同じころ夜間の視認状況を再現するために、コンピューターで作る画像(CGI=computer generated imagery)が使われるようになった。やがて技術の進歩で白昼の様子もCGI画像化できるようになり、1977年にはルフトハンザ航空が最初に全CGI画像方式のシミュレーターを使うようになった。

CGI画像の素晴らしさは、最新の映画“スターウオーズ(Star Wars)”を見た人には実感できるだろう。この映画ではほぼ全編にわたってCGIが使われている。

技術の進歩でCGIだけでなく航空機のあらゆるシステムを忠実に再現出来るようになったため、1980年代には航空当局からシミュレーター訓練は、実機の訓練に替わる“ゼロ・フライト・タイム訓練”として認められるようになった。そして、乗員同士の能力を(危機に際し)最大限に活用するための訓練、すなわち“コクピット・リソース・マネジメント(CRM=cockpit resource management)”訓練が、シミュレーター訓練に組込まれるようになり、以来ヒューマン・ファクター(人間の過ち)による事故は減少を続けている。

FAAの規則によると、エアライン・パイロット訓練に使うシミュレーターは「FFS」(Full Flight Simulators)の分類に入り、さらに4区分のレベルがある。レベルCの要件は、操縦室は6軸モーション型、目視装置は水平範囲で両方のパイロットが75度以上視認できること。最高級のレベルDではCと同じ要件に加えて視認範囲は150度以上、遠方は遠方らしく見える“Collimated display”形式の表示、室内の音響効果は実際と合わせる、ことなどが要件になっている。

JALシミュレーター

図7: (JAL CAE Flight Training Co.,)JALの乗員訓練で使用中のボーイング777-200ER型機シミュレーター。CAE社製で6軸モーション式、FAAのFFS level Dの認定を取得済み。同社では737-800、787-8、767-300などのFSSを所有、訓練に使っている。さらに整備士訓練用の「MTS= Maintenance Training Simulator」も各機種用に用意、活用している。

 

6. 新しいアビオニクスの普及(Deploying New Avionics)

 

ボーイング747型機には数々の革新的技術が組込まれているが、その一つが「慣性航法装置(INS=inertial navigation system)」で、民間機として初めて搭載された。これで乗員は無線で誘導されなくても自機の位置を正確に知るようになった。INSはそれまで軍用機やミサイルに使われていたが、高価で民間機用としては信頼性が不十分だったが、デルコ(Delco)のカローセルIV(Carousel IV)が完成し、民間への普及が始まった。747に続いてDC-10、トライスターなど100席以上の旅客機に相次いで採用された。

1970年の747就航から、10年経たないうちに757と767が現れたが、両機の操縦室は革新的な「グラス・コクピット(glass cockpit)」に変貌した。1970年代半ばには、関係技術者の間では“1985年頃にはコクピット計器は白黒表示のブラウン管方式に替わる”と予測されていたが、実際は電子技術の進歩が予想以上に早く、鮮明なカラー方式の表示盤になった、のである。

また、カローセルIV INSは複雑なプラットフォームと機械式のジャイロを使っていたが、ハニウエル社が、稼働部分がない新しい「リング・レーザー・ジャイロ(RLG=ring-laser gyro)式INS」を開発したので、これに取って代わられた。そして航法、フライト・コントロール、コクピット表示、の各システムは、共通のデータ・ベースの上に構築されるようになった。この結果、ボーイングによれば「707と同じサイズの767はパイロット2名で飛べるようになった」のである。

もう一つ1970年代には航法関連で重要な技術革新が実用化された。米海軍では、1960年代から潜水艦発射型弾道ミサイルの配備を始めていた。“ポラリス(UGM-27)”から始まって“ポセイドン(UGM-73)”に、1980年代からは“トライデント”ミサイルが、オハイオ級などの潜水艦(SSBN) 18隻に搭載されている。これら潜水艦(SSBN)からミサイルを発射する時には、自艦の正確な位置を、電波を発射せずに直ちに確定しなければならない。その解決策として実現したのがナブスター(Navstar)、通称「GPS」である。GPS受信機は受信のみで信号の発信は不要、秘匿性に優れ潜水艦の自位置確定には極めて有用である。

GPS受信機が出現した1970年代では、キャビネットほどのサイズだったが、技術の進歩で小型化が進みチップサイズにまで縮小した。これで飛行機、自動車、スマートフォン、などあらゆる移動機器で使われるようになった。それまでパイロットは始終自機の位置に注意しながら飛行していたが、このお陰で随分負担が軽くなった。

GPS

図8:(NASA)写真は2010年以降軌道にあるGPSの最新型ブロックIIF 衛星の想像図、現在12基が回っている。「GPS」とは”Global Positioning System”の略、“全地球測位システム”で、米国は約30個のGPS衛星を地球周回軌道で運用中。GPS衛星は、時刻と軌道の情報を乗せた電波を送信し続けているので、上空にある数個の衛星からの信号をGPS受信機で受けて自身の位置を知ることができる。

 

GPS受信機がなかった1983年に、269名を乗せた大韓航空の747が、樺太付近でソビエト空域に進入、ソ連空軍機に撃墜された事件が起こった。これを受け米国のレーガン大統領はGPS衛星の民間利用を可能にするよう指示を出した。これで1989年4月以降から民間利用対応型の衛星ブロックIIが打ち上げられるようになった。

(その3に続く)