平和安全法制(安保法制)が施行


 

ー国民の生命、自由、安全は、「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要」ー

 2016-04-04(平成28年) 元・国務大臣秘書官 鳥居徹夫

 

■□施行された平和安全法制、侵略抑止の効果も 

 

昨年9月の通常国会で成立した平和安全法制(安保法制)が、ようやく今年3月29日に施行された。

一部野党は、国会審議や採決を暴力的に抵抗したが、産経新聞社とFNN(フジ・ニュースネットワーク)の合同世論調査で、安保関連法を「必要」と考える人の割合は同法成立後から増え続け、3月19、20両日の調査では57・4%に上った。

2月の共同通信の調査でも、「廃止すべきでない」(47・0%)が「廃止すべきだ」(38・1%)を1割以上も上回っている。

個別的であれ、集団的であれ自衛権の行使、および集団安全保障は、国連憲章51条によってすべての加盟国に認められた国際法上の権利であり、日本にも当然、認められている。

この「平和・安全法制」は、明らかに憲法の趣旨に沿ったものである。それを実効ある国内法体系に、きわめて限定的ながら肉付けしたのが、この「平和・安全保障法」なのであり、むしろ法整備が遅すぎたのである。

 

■□外交に正義や道理は全く無力。力がなければ押しつぶされる

 

昭和48(1973)年にノーベル平和賞を受賞したヘンリー・キッシンジャー氏は、その著『ホワイトハウス・イヤーズ』(邦訳で『キッシンジャー秘録』小学館刊)で、このように指摘している。

 

「弱ければ必ず侵略を誘い、無力であれば、結局は自国の政策を放棄させられる」、「力がなければ、もっと崇高な目的でさえ、他国の独善行為によって、押しつぶされてしまう危険があることは、事実なのである」

同著は「外交技術というものは、軍事力を補強することができても、軍事力の身代わりをつとめることは決してできなかった」、「実際には、力の均衡こそが、平和の前提条件をなしていたのである」とも指摘した。

つまり外交とは血を流さない戦争なのである。外交に正義や道理は、全く無力であり、パワー・軍事力なしでは相手から譲歩を引き出せない。

歴史を通じて、国家の政治的影響力の大小は、およそ、その国の軍事力の程度に比例してきた」のである。(いずれも第1巻257ページ)

外交とは、クラウゼヴィッツの言葉を借りるまでもなく、血を流さない戦争である。パワー・軍事力なくして、外交交渉での譲歩を引き出せない。

 

■□個別的であれ集団的であれ、自衛権の行使は、国連加盟国の「固有の権利」

 

憲法13条は「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」としている。

当然のこととして、国民の生命、自由、安全などは、「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」のであるから、憲法9条2項についても、その趣旨を踏まえ、自衛権が前提である。

国連憲章51条は、このような集団的自衛権を個別的自衛権とともに、加盟各国が有する「固有の権利」であると定めている。

ちなみに、集団的自衛権に関する「武力行使の新3要件」の一つに、「密接な関係にある他国への武力攻撃が発生し、日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」として、この憲法第13条の条文が引用され例示されている。

日本国憲法は、自衛権の行使を否定していない。個別的であれ集団的であれ自衛権の行使は、憲法解釈上の問題ではなくて、政策判断上の問題である。

 

その場合、憲法の理念である9条1項に掲げられている「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するということは言うまでもない。

混乱地域の秩序維持などの平和維持活動(PKO)も、この「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」する理念に沿うものであり、いま地球の裏側にあたる南スーダンで日本も活動している。

その日本自衛隊のPKO活動を護衛しているのが、バングラディシュの軍隊である。

安保法制の成立前は、日本の活動を護衛するバングラディシュの軍隊が、ゲリラに攻撃されても、日本はバングラディシュの軍の支援すらできなかったのである。

この「平和・安全保障法制」の中身について、残念ながら野党ばかりでなく自民党も無理解であった。

—以上—