死に方を考えよう-延命治療は受けるべきか、否か


2014-02-03  産經新聞論説委員 木村良一

 

いかに治療をしようと、あとは死が訪れるのを待つだけという終末期の状態に陥ったとき、通常は延命治療が施される。この延命治療に対し「体が死のうとしているのに無理やり引き留めるのは良くない」という意見がある一方で、「一律に延命を中止するのは無理がある。終末期は多様で人や状況によって違う。どんな状況が治療不可能というのか、議論を深める必要がある」との見解もある。

ただ、だれにも人生に幕を下ろすときがやってくることだけは確かだ。2012年の日本人の平均寿命は、女性が86.41歳で世界一、男性は79.94歳とやや低いもののそれでも世界第5位と高い。日本の高度な医療水準がこの平均寿命の高さを支えているわけだが、その半面「死にたいのになかなか死ねない」という矛盾も生まれている。

私たちは終末期をどう迎え、どうやって死んだらいいのか。

レスピレーターによる人工呼吸やおなかに穴を開けて栄養剤をチューブで胃に送る胃ろうなどの延命治療をやめ、自然な死を迎えることを尊厳死と呼ぶ。この尊厳死を実現するための「尊厳死法案」を国会に提案しようとする動きがある。超党派の国会議員でつくる議員連盟が土台となる法案を一昨年、まとめ上げた。書面に患者本人の意思表示が明記され、2人以上の医師が回復の見込みがない終末期であると判断すれば、延命治療を始めずにそのまま死ぬことができるという内容だ。

延命治療を施さない医師に対する刑事責任や行政上の責任は問われることがなく、医師は患者の意思を尊重できる。さらに患者の延命治療を途中で止めることも認める法案も検討されている。現在、自民党のプロジェクトチーム(PT)で議論されているが、この議員連盟の法案をベースに各党の意見を取り入れて議員立法の形でまとめ上げ、それを4月ごろ、通常国会に提案する見通しだ。

尊厳死の法制化を強く訴えているのが、会員数12万5,000人の一般社団法人・日本尊厳死協会だ。協会の会員になると、尊厳死の宣言書(リビング・ウイル)に署名し、終末期になったときに主治医に提示される。宣言書には延命治療を拒否し、痛みを取り除く治療を進めてもらう要望が記されている。

日本老年医学会が2012(平成24)年6月に胃ろうを止めるための指針をまとめているし、日本救急医学会も人工呼吸器の中止ができるよう提言している。高齢者医療に従事する臨床現場の医師たちも「無駄に命を延ばそうとするのではなく、死を可能な限り望ましい形で迎えられるようにしたい」と主張している。

しかし日本弁護士連合会や障害者団体、難病患者の団体は尊厳死の法制化に反対している。「社会的弱者の生存を脅かす」「人の死に国家が介入するのはどうか」というのがその反対理由だ。

終末期をどうするかは死生観や生命倫理に関わる難しい問題だ。それだけに尊厳死法案の提案を契機に国会で質の高い議論を重ねるだけではなく、国民ひとりひとりがじっくり考える必要がある。

日本人は死生観や生命倫理の話になると、どうしても腰が引ける。議論も後ろ向きの論議が多い。たとえば「脳死は人の死か、否か」の論議に時間を費やした臓器移植法案の成立までの経緯を見てもそれはよく分かる。

臓器移植法案が国会に提出されたのが1994(平成6)年4月。しかし審議されずに継続審議にされ、趣旨説明と質疑が行われた後も継続審議扱いが繰り返され、衆院の解散で廃案となってしまう。96年に再提出されたものの、審議が進まずに「臓器提供に限って脳死を人の死とする」と修正され、1997年6月にやっと成立した。法案が提出される2年前の92(平成4)年に政府の脳死臨調(臨時脳死及び臓器移植調査会)が、脳死を死として容認し、臓器移植を推進する答申を行っているにもかかわらず、国会ではさんざん無駄な脳死論議が繰り返され、提案から成立まで3年以上もかかった。

ところで最近、オランダの安楽死の現状を長期間に渡って取材し、数冊の著書にまとめているオランダ人通訳の女性から貴重な話を聞くことができた。1947年に東京で生まれ、アメリカとオランダの国籍を持つ「シャボットあかね」さんだ。オランダでは2001年に世界初の安楽死法が成立し、医師に薬物を注射してもらって死ぬことができる。

なぜオランダでは安楽死法が成立し得たのか。シャボットさんによると、ひとつは何でも前向きに話し合う議論好きなオランダの国民性にあるという。積極的な安楽死とはいわないまでも、せめて自分の終末期の延命治療をどうするかについて、逃げずに家族や友達で話し合っておく必要があるのではないか。

−以上−

 

本稿は「慶大綱町三田会のメッセージ@pen」から転載した。