2026-6-2(令和8年)木村良一(ジャーナリスト・作家、元産経新聞論説委員)
■アウトブレイクに過ぎないのか
「大西洋を航行中のクルーズ船でハンタウイルスが流行し、これまでに3人が死亡している」。WHO(世界保健機関)が5月4日、こう発表しその後の報道も続いてちょっとした騒動となった。このハンタウイルスの集団感染は、パンデミック(地球規模の流行)を引き起こすようなものではなく、アウトブレイク(限定された集団や地域での流行)に過ぎない、との見方がある一方、世界の海をめぐるクルーズ船による航海が感染拡大に結び付くリスクも露呈した。
今回のハンタウイルスの感染で脳裏をよぎったのが、あの大型豪華客船「ダイヤモンド・プリンセス号」の新型コロナウイルスの集団感染である。ダイヤモンド・プリンセス号の集団感染は、6年前の横浜港で起きた。2020年2月3日の「すべての乗客・乗組員を船内にとどめ、全員の健康状態を調べる」という厚生労働省の公表をきっかけに大きなニュースとなった。健康状態によって優先順位を決めて下船させ、医療機関に振り分けていく作戦が取られたが、初めての経験だけに全員の下船までに1カ月近くもかかった。結局、感染者は乗客・乗組員(計3711人)の2割に当たる712人となり、死者は13人にも上った。
■船舶は3密の典型だ
ダイヤモンド・プリンセス号は横浜港に停泊していたが、船籍はイギリス、運航しているのはアメリカの会社だった。寄港国、船籍国、運航国がそれぞれ異なっていた。しかも大勢の人が乗っていた。一方、今回のハンタウイルスの集団感染は乗客・乗組員の人数が少なく、小規模で収まった。だが、ひとたびクルーズ船で人の命を次々と奪う感染症が流行した場合、関係国はどう対応すべきなのか。クルーズ船の旅は世界的に人気にもかかわらず、寄港国に感染者の受け入れ義務を課すなど明確な国際ルールがなく、課題は残されたままである。
ダイヤモンド・プリンセス号自体も危機管理に欠けていた。WHOが「国際的な公衆衛生上の緊急事態宣言」を出した2020年1月30日以降にも、当初は船内パーティーが開かれていた。乗客は基礎疾患のある高齢者が多く、感染の有無にかかわらず、下船できずに体調を崩していった。船員も隔離されずに相部屋で寝起きしながら業務を続けていた。
そもそも船舶は浸水を防ぐ観点から船室は狭く区切られ、閉鎖され、換気が悪く、病原体のウイルスや細菌が蔓延しやすい構造になっている。いわゆる密閉・密集・密接の3密の典型である。しかも波に揺れるために船内には手すりが多く設置され、乗客・乗組員がよくつかむ。その手すりに病原体が付着していると、つかむ度に接触感染によって感染を広めてしまう。
初期の新型コロナの感染で問題になった屋形船も同じだ。東京・浅草の屋形船で宴会を楽しんだことがあるが、あの狭い閉鎖空間に大勢が詰め込まれ、そこに1人でも感染者がいたら当然、飛沫感染は起こる。会話でウイルスを含んだ飛沫の唾液は飛び散る。お酒に酔っていれば会話が弾み、飛沫もますます飛ぶ。料理やグラス、食器、テーブルにも付着するし、直接、目鼻や口にも飛び込んでくる。酔いで本来の免疫(抵抗力)も弱まっているから感染は成立しやすい。宴会の屋形船はコロナウイルスにとって絶好の感染拡大の場となった。
■名は韓国の川に由来する
世界各地を回るクルーズ船はいろいろな国の人々と交わって長旅を味わうことができる。今回のハンタウイルスの集団感染を引き起こしたクルーズ船のホンディウス号にも23カ国、147人(日本人1人)の乗客・乗組員が乗船していた。船籍はオランダで、オランダの会社が運航して極地探検を楽しむ船舶だった。そんなクルーズ船だからこそ、乗客・乗組員の健康状態や寄港する地域でどんな感染症が流行しているかを事前に把握しておくことが求められる。危機管理の基本である。
ところで、問題のハンタウイルスの「ハンタ」だが、古くから知られた病原体で、ハンタウイルスの一種を媒介するセスジネズミが韓国のハンターン川(漢灘江=かんたんこう)付近で捕獲されたことから1976年に付けられた名称である。この名称が付けられる以前は韓国型出血熱として認識され、朝鮮戦争(1950年~1953年)の際には、発熱や皮膚に点状の出血が現れる疾病として軍隊で流行した。日本や中国など世界各国でハンタウイルスが見つかり、ハンタウイルスにはネズミの種類ごとに数十種あることが判明し、それらを総じてハンタウイルスと呼ぶようになった。
川の名称に由来するといえば、致死率90%のあのエボラ出血熱ウイルスも1976年、最初に感染者が出たアフリカ中央のコンゴ民主共和国(旧ザイール)のエボラ川からその名が取られた。このエボラ出血熱が同国などで再び流行し、今年5月17日にはWHOが「国際的な公衆衛生上の緊急事態」を宣言した。
■アンデス株が怖い
ハンタウイルスについてもう少し具体的に述べてみよう。ハンタウイルスはウイルスを含んだネズミなどのげっ歯類の排泄物が乾燥してほこりになって飛び散り、それを吸い込んで感染する。ネズミにかまれても感染する。養鶏場でニワトリが羽ばたくことで鶏糞が舞い上がり、それを吸い込んで鳥インフルエンザウイルスに感染するのと同じである。
ハンタウイルスを大きく分けると、ヨーロッパ・アジア型と南北アメリカ型の2つのタイプがある。今回問題になったのは、後者の南北アメリカ型のうちのアンデス株で、濃厚接触によって人から人に感染することが確認されている。発熱や咳、下痢などインフルエンザのような症状が出てそれが急速に悪化して肺炎などを引き起こす。致死率は最大で50%と高く、治療は対症療法しかない。感染から発症までの潜伏期間が最大で6週間と長く、集団感染が発覚してからしばらくして新たな感染者が出ることがあるし、クルーズ船内で感染したことに気付かず寄港先で感染を広める危険性もある。
■喉もと過ぎても熱さ忘れるな
ハンタウイルスで感染死した3人のうち2人はオランダ人の夫婦だった。乗船前にアルゼンチンとチリ、ウルグアイを回ってバードウォッチングを楽しんでいた。アルゼンチンの保健省によると、アルゼンチンではハンタウイルスの感染が急増し、2025年6月~2026年5月の間に過去10年間で最多の100件以上の感染者が報告されている。オランダ人の夫婦はクルーズ船に乗り込む前にアルゼンチンで感染した可能性が高い。
ハンタウイルスの感染は飛沫感染が中心で、飛沫核感染(空気感染)する麻疹ウイルスなどに比べて感染力は弱く、新型コロナウイルスのようにヒト・ヒト感染で次々と感染が拡大するわけでもない。WHOも記者会見で「大規模な流行に至る状況ではなく、公衆衛生上のリスクは低い」としている。
しかし、今回のケースでオランダ人の夫婦はアルゼンチンで起きているハンタウイルスの流行をどこまで把握していたのか。バードウォッチングに案内役のガイドがいたとすれば、そのガイドはハンタウイルスの流行をどう考えていたのだろうか。
私たちは新型コロナウイルスによる感染被害の中から多くのことを学んだ。大切なことは、学び取ったことを教訓として生かすことである。喉もと過ぎれば熱さ忘れるでは心もとない。寄港する地域でどんな感染症が流行しているかを事前に把握しておくことが求められる、と前述したが、外務省や厚生労働省のホームページを使って治安の状況や感染症の流行など旅先の様子をつかんでおくことが欠かせない。図
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◎慶大旧新聞研究所OB会によるWebマガジン「メッセージ@pen」の2026年6月号(下記URL)から転載しました。メッセージ@penには慶大HPからも入れます。